ら、美しい女に恋されもしまい。気の毒だな、同情する。俺はそういう人間へ、充分同情の出来る者だ。恋などするな、恋は苦しい。……さあ遠慮なく金を取れ。そうして酒でも飲んでくれ」
「馬鹿にするない! 乞食じゃアねえ」
鬼小僧はすっかり怒ってしまった。
「だが、おかしな侍だなあ。どう考えてもおかしな野郎だ。ははあ失恋で気がふれたな。……せっかくの好意だが受けられねえ」
「そう云わず取ってくれ。俺はそういう人間なのだ。女連れと見ると斬りたくなる。若い男が一人通ると、俺は金をやりたくなる」
これを聞くと鬼小僧は、後ろへピョンと飛び退いた。
「それじゃア手前は『夫婦《めおと》斬り』だな! こいつア可《い》い所で邂逅《ぶつか》った。逢いてえ逢いてえと思っていたのだ。ヤイ侍よく聞きねえ。俺はな、今から十日前まで、紙鳶堂先生のお側《そば》に仕え、形学の奥義を究めていたものだ。印可となってお側を去り、これから長崎へ行くところだ。そこでもっと[#「もっと」に傍点]修行するのよ。ところで久しぶりで市《まち》へ出てみると、夫婦斬り噂で大騒ぎだ。そこで俺は決心したのだ。よくよくそういう無慈悲の奴は、俺の形学で退治てやろうとな。で今夜も探していたのさ。ここで逢ったが百年目、さあ野郎観念しろ!」
云い捨て懐中へ手を入れると一尺ほどの円管《つつ》を出した。キリキリと螺施《ねじ》を捲く音がした。と、円管先から一道の火光が、煌々然と閃めき出た。
「眼が眩んだか、いい気味だ! エレキで作った無煙の火、アッハハハ驚いたか! 古風に云やア火遁《かとん》の術、このまま姿を隠したら、絶対に目つかる物じゃアねえ。……や、刀を抜きゃアがったな! さあ切って来い、来られめえ! おっ、浮雲《あぶね》え!」と鬼小僧は、突然円管先の光を消した。
光の後の二倍の闇、闇に紛れて逃げたものか、鬼小僧の姿は見えなかった。
8
深編笠の侍は、白刃《しらは》をダラリと下げたまま、茫然と往来へ立っていた。
「ここだここだ!」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。
「やいやい侍|吃驚《びっくり》したか。だが驚くにゃアあたらねえ。飛燕の術というやつさ。日本の武道で云う時はな。……形学《けいがく》で云うと少し違う。物理の法則にちゃんとあるんだ。教えてやろう『槓桿《こうかん》の原理』そいつを応用したまでだ。……さあ今度は何にしよう。水鉄砲がいい! うんそうだ!」
また懐中から何か出した。
「おおおお侍気を附けろよ! ただの水鉄砲たア鉄砲が異《ちが》う。水一滴かかったが最後、手前の体は腐るんだからな」
闇に一条の白蛇を描き、シューッと水が迸《ほとばし》り出た。
危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。
「あっ、畜生、こいつア不可《いけ》ねえ。あべこべに先方《むこう》が水遁の術だ。……中止々々! 水鉄砲は中止。……さてこれからどうしたものだ。ともあれ家根《やね》から飛び下りるとしよう」
鬼小僧はヒラリと飛び下りた。
途端に侍が走り出た。
「小僧!」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。
「どっこい!」という声と共に、辛く身を反《かわ》せた鬼小僧、三間ばかり逃げ延びたが、そこでグルリと身を飜えし、ピューッと何か投げ付けた。それが地へ中《あた》った一刹那、ドーンと凄じい爆音がした。と、火花がキラキラと散り、煙りが濛々と立ち上った。
「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻はもげ[#「もげ」に傍点]っちまうぜ。気息を抑える発臭剤! 可哀そうだなあ、死《くたば》れ死れ!」
だが侍は死らなかった。煙りを潜《くぐ》って走って来た。
「わッ、不可《いけ》ねえ、追って来やがった!」
吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石に躓《つまず》いて転がった。得たりと追い付いた侍は、拝み討ちの大上段、
「小僧、今度は遁さぬぞ!」
切り下ろそうとした途端、にわかに侍はよろめい[#「よろめい」に傍点]た。
「お杉様!」とうめくように云った。
やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、
「え、何だって? お杉さんだって? 俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。……お前さんそいつ[#「そいつ」に傍点]を知ってるのか? 俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」
「お杉様!」と侍はまた云った。
「貴女《あなた》は死にかけて居りますね。……恋の一念私には解《わか》る。……餓えてかつえ[#「かつえ」に傍点]て死にかけて居られる」
侍はベタベタと地に坐った。
驚いたのは鬼小僧で、呼吸《いき》を呑んで窺った。
「細い細い糸のような声! 私を呼んでおいでなさる。三之丞様! 三之丞様と!」
「お前さん三之丞って云うのかい。……そうして
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