品は旗本のお嬢様、それで心は茶屋女、これがお杉の本態であった。そういう女が初恋を得て、男へ通って行くのであった。どんな男の鉄石心でも、とろけ[#「とろけ」に傍点]ざるを得ないだろう。一方三之丞は情熱家、家庭の風儀が厳しかったので、悪所へ通ったことがない。どっちかと云えば剣道自慢、無骨者の方へ近かった。とは云え旗本の若殿だけに、風貌態度は打ち上り、殊には生来の美男であった。女の心を引き付けるに足りた。
この恋成就しないはずがない。
しかし初恋というものは、漸進的のものである。心の中では燃えていても、形へ現わすには時間《とき》が必要《い》る。そうして多くはその間に、邪魔が入るものである。そうして消えてしまうものである。しかし往々邪魔が入り、しかも恋心が消えない時には、一生を棒に振るような、悲劇の主人公となるものである。
ある日主計と奥方とは、ひそひそ部屋で囁いていた。
5
「貴郎《あなた》、ご注意遊ばさねば……」
こう云ったのは奥方であった。
「うむ、お杉と三之丞か」
主計はむずかしい顔をしたが、
「何とかせずばなるまいな」
「どうぞ貴郎から三之丞へ。……妾《わたし》からお杉へ申しましょう」
「うむ、そうだな、そうしよう」
翌日三之丞が遊びに来た。
「三之丞殿、ちょっとこちらへ」
主計は奥の間へ呼び入れた。
「さて其許《そこもと》も二十二歳、若盛りの大切の時期、文武両道を励まねばならぬ。時々参られるのはよろしいが、あまり繁々《しばしば》来ませぬよう」
婉曲に諷したものである。
「はっ」と云ったが三之丞には、よくその意味が解《わか》っていた。で頸筋を赧《あか》くした。
その夜奥方はお杉へ云った。
「其方《そなた》も今は旗本の娘、若い男とはしたなく[#「はしたなく」に傍点]、決して話してはなりませぬ」
こうしてお杉と三之丞とは、その間を隔てられた。隔てられて募らない恋だったら、恋の仲間へは入らない。おりから季節は五月であった。蛍でさえも生れ出でて、情火を燃やす時であった。蛙でさえも水田に鳴き、侶《とも》を求める時であった。梅の実の熟する時、鵜飼《うかい》の鵜さえ接《つ》がう時、「お手討ちの夫婦なりしを衣更《ころもが》え」不義乱倫の行ないさえ、美しく見える時であった。
二人は恋を募らせた。
お杉はすっかり憂鬱になった。そうして心が頑固《かたくな》になった。ろくろく物さえ云わなくなった。そうして万事に意地悪くなり、思う所を通そうとした。
三之丞は次第に兇暴になった。
恐ろしいことが起こらなければよいが!
それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。
と、行手から編笠姿、懐手《ふところで》をした侍が、俯向きながら歩いて来た。擦れ違った一刹那、
「待て!」と侍は忍び音に呼んだ。
「ひえッ」と云うと男女の者は、泥濘《ぬかるみ》へペタペタと膝をついた。
「どうぞお見遁し下さいまし」
こう云ったのは男であった。見れば女は手を合わせていた。
じっと見下ろした侍は、
「これ、其方《そち》達は駈落だな」
こう云いながらジリリと寄った。陰森たる声であった。一味の殺気が籠もっていた。
「は、はい、深い事情があって」
男の声は顫《ふる》えていた。
「うむ、そうか、駈落か。……楽しいだろうな。嬉しいだろう」
それは狂気染みた声であった。
「…………」
二人ながら返辞が出来なかった。
「そうか、駈落か」とまた云った。
「うらやましいな。……駈落か、……よし、行くがいい、早く行け……」
「はい、はい、有難う存じます」
男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。
「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。
「ひ――ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。
茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。
「可《い》い気持だ」と呟いた。
「お杉様!」と咽ぶように云った。
それから後へ引っ返した。
6
江戸へ「夫婦《めおと》斬り」の始まったのは、実にその夜が最初であった。あえて夫婦とは限らない。男女二人で連れ立って、夜更けた町を通って行くと、深編笠の侍が出て、斬って捨るということであった。江戸の人心は恟々とした。夜間《よる》の通行が途絶え勝ちになった。
さて一方お杉の身の上には、来べきことが来ることになった。将軍|家斉《いえなり》の眼に止まり、局《つ
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