味も、商人の平凡な答えによって、忽ち冷めてしまったらしい。無感激の眼つきをして、ぼんやり天井を眺め出した。
「いえそればかりではございません」商人は一膝進めたが、「家内中評判でございます。いえもうこれは本当の事で」「何、評判? 何が評判だ?」「はいその旦那様のお鼓が」「盲目千人に何が判《わか》る」「そうおっしゃられればそれまでですが、一度お鼓が鳴り出しますと、三味線、太鼓、四つ竹までが、一時に音色をとめてしまって、それこそ家中|呼吸《いき》を殺し、聞き惚れるのでございますよ」
「有難迷惑という奴さな。信州あたりの山猿に、江戸の鼓が何んでわかる」かえって銀之丞は不機嫌であった。
「町人町人、千三屋、その男にはさわらぬがよい」
 見かねて造酒が取りなした。「その男は病人だ。狂犬病という奴でな、むやみに誰にでもくってかかる。アッハハハハ、困った病気だ。それよりどうだ碁でも囲《かこ》もうか」「これは結構でございますな。ひとつお相手致しましょう」
 そこで二人は碁を初めた。平手造酒も弱かったが商人も負けずに弱かった。下手《へた》同志の弱碁《よわご》と来ては、興味津々たるものである。二人はすっかりむちゅうになった。

 甚三甚内の兄弟の上へ、おさらば[#「おさらば」に傍点]の日がやって来たのは、それから間もなくの事であった。その朝は靄《もや》が深かった。甚三の馬へ甚内が乗り、それを甚三が追いながら、追分の宿を旅立った。宿の人々はまだ覚めず家々の雨戸も鎖《と》ざされていた。宿の外れに立っているのは、有名な桝形《ますがた》の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、石標《いしぶみ》の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を歩《あゆ》ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は芒《すすき》の穂で、行くなと招いているようであった。
「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で佇《たたず》んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「おいら[#「おいら」に傍点]は今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」
「うん」というと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる碓井峠《うすいとうげ》、彼方《あなた》に関所が立っていた。眼の下を見れば山脈《やまなみ》で、故郷の追分も見え解《わか》ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、草蒸《くさいき》れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、咽《むせ》ぶがような顫《ふる》え声が、低く低く草を這い、風に攫《さら》われて消えて行った。

 弟と別れた甚三が、空馬を曳いて帰りかけた時、
「馬子!」とうしろから呼ぶ者があった。振り返って見ると旅の武士が、編笠を傾けて立っていた。けんかたばみ[#「けんかたばみ」に傍点]の紋服に、浮き織りの野袴を裾短かに穿き、金銀ちりばめた大小を、そりだか[#「そりだか」に傍点]に差した人品は、旗本衆の遊山旅《ゆさんたび》か、千石以上の若殿の、気随の微行とも想われたが、それにしてはお供がない。

    病的に美しい旅の武士

 編笠をもれた頤《あご》の色が、透明《すきとお》るようにあお白く、時々見える唇の色が、べにを注《さ》したように紅いのが気味悪いまでに美しく、野苺に捲きついた青大将だと、こう形容をしたところで、さらに誇張とは思われない。開いたばかりの関所の門を、たった今潜って来たところであろう。
「戻り馬であろう。乗ってやる」こういった声は陰気であった。
「へい有難う存じます」甚三は実は今日一日は、稼業をしたくはなかったのであるが、侍客に呼び止められて見れば、断ることも出来なかった。「どうぞお召しくださいまし」
 シャン、シャン、シャンと鈴を響かせ、馬は元気よく歩き出した。どう、どう、どう、と馬をいたわり、甚三は峠を下って行った。手綱は曳いても心の中では、弟のことを思っていた。でムッツリと無言であった。馬上の武士も物をいわない。これも頻りに考え込んでいた。
 カバ、カバ、カバと蹄の音が、あたりの木立ちへ反響し、空を仰げば三筋の煙りが、浅間山から靡《なび》いていた。と、突然武士がいった。「追分宿の旅籠屋《はたごや》では、何んというのが名高いかな?」「本陣油屋でございます」「ではその油屋へ着けてくれ」「かしこまりましてございます」
 それだけでまたも無言となった。夏の陽射しが傾いて、物影が長く地にしいた。追分宿へはいった頃には、家々に燈火がともされていた。

 両親は去年つづいて死に、十四になった唖《おし》の妹と、甚内を入れて兄弟三人、仲よく水入らずに暮らして来たのが、その甚内が旅へ出た今は、二人ばかりの暮らしであった。……そのさびしい自分の家へ甚三は馬を曳いて帰って来た。
「おい、お霜《しも》、今帰ったよ」厨《くりや》に向かって声を掛けたが、声が掛かっても唖のことで、お霜が返辞をしようもない。いつもの癖で掛けたまでであった。厨《くりや》の中では先刻から、コトコト水音がしていたが、ひょいと小娘が顔を出した。丸顔の色白で、目鼻立ちもパラリとして、愛くるしいきりょう[#「きりょう」に傍点]であった。赤い襷を綾取って、二の腕の上まで袂をかかげ、その腕を前垂れで拭きながら、甚三を眺めて笑った様子には、片輪者らしいところもなく、野菊のような気品さえあった。
「あッ、あッ、あッ」と千切れるような、唖《おし》特有の叫び声を上げ、指で部屋の方を差したのは、夕飯を食えという意味であろう。
「よしよし飯が出来たそうな、どれご馳走になろうかな」つぶやきながら足を洗い、馬へ秣《まぐさ》を飼ってから、家の中へはいったが、部屋とは名ばかりで板敷きの上に、簀子が一枚敷いてあるばかり、煤けて暗い行燈《あんどん》の側に、剥げた箱膳が置いてあった。あぐら[#「あぐら」に傍点]を掻くと箸《はし》を取ったが、給仕をしようと坐っている、妹を見ると寂しく笑い、
「お前もこれからは寂しくなろうよ。兄《あに》やが一人いなくなったからな。それにしても甚内は馬鹿な奴だ。何故海へなぞ行ったのかしら。こんなよい土地を棒に振ってよ。ほんとに馬鹿な野郎じゃねえか。土地が好かない馬子が厭だ、この追分に馬子がなかったら、国主大名も行き立つめえ。馬方商売いい商売、そいつを嫌って行くなんて、ほんとに馬鹿な野郎だなあ。……だがもうそれも今は愚痴だ。望んで海へ行ったからには、立派に出世してもれえてえものだ、なあお霜そうじゃねえか。……おや太鼓の音がするな。四つ竹の音も聞こえて来る。ああ町は賑やかだなあ。あれはどうやら三丁目らしい。さては油屋かな永楽屋かな。いいお客があると見える。油屋とするとお北めも、雑《まじ》っているに相違ねえ」
 甚三はじっと考え込んだ。やがてカラリと箸を置くと、フラリと立って土間へ下り、草履《ぞうり》をはくとのめるように、灯の明るい町へ引かれて行った。
 お霜は茫然《ぼんやり》坐っていたが、やがてシクシク泣き出した。聞くことも出来ずいうことも出来ない、天性の唖ではあったけれど、女の感情は持っていた。可愛がってくれた甚内が、遠い他国へ行ったことも兄の甚三がお北という、宿場女郎に魅入《みい》られて、魂をなくなしたということも、ちゃんと心に感じていた。それがお霜には悲しいのであった。

    出合い頭《がしら》にいきあった二人

 絹|商人《あきんど》の千三屋は、ザッと体へ拭いを掛けると、丸めた衣裳を小脇にかかえ、湯殿からひょいと廊下へ出た。とたんにぶつかった者があった。「これは失礼を」「いや拙者こそ」双方いいながら顔を見合わせた。剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を着た、眼覚めるばかりの美男の武士が、冷然として立っていた。
「とんだ粗忽を致しまして、真っ平ご免くださいまし」いい捨て千三屋は擦り抜けたが、十足ばかりも行ったところで、何気ない様子をして振り返って見た。とその武士も湯殿の口で、じろじろこっちを眺めていた。
「こいつ只者じゃなかりそうだ」こう千三屋はつぶやくと、小走りに走って廊下を曲がり、自分の部屋へ帰って来たが、どうも心が落ち着かない。「途方もねえ美男だが、美男なりが気に食わねえ。まるで毒草の花のようだ。よこしまなもの[#「よこしまなもの」に傍点]を持っている。ひょっとするとレコじゃないかな? これまでただの一度でも狂ったことのねえ眼力だ。この眼力に間違いなくば、彼奴《きゃつ》はただの鼠じゃねえ。巻物をくわえてドロドロとすっぽんからせり上がる溝鼠《どぶねずみ》だ」
 腕を組んで考え込んだ。
 剽軽者で名の通っている、女中頭のお杉というのが、夕飯の給仕に来た時である、彼は何気なくたずねて見た。
「下でお見掛けしたんだが、剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を召した、綺麗な綺麗なお侍様が、泊まっておいでのご様子だね」「そのお方なら松の間の富士甚内様でございましょう」「おお富士様とおっしゃるか。稀《まれ》に見るご綺麗なお方だな。男が見てさえボッとする」「ほんとにお綺麗でございますね」「店の女郎《こども》達は大騒ぎだろうね」「へえ、わけてもお北さんがね」「ナニお北さん? 板頭《いたがしら》のかえ?」「へえ、板頭のお北さんで」「噂に聞けばお北さんは、馬子でこそあれ追分の名人、甚三という若者と、深い仲だということだが」「へえ、そうなのでございますよ」「可哀そうにその馬子は、それじゃこれからミジメを見るね」「それがそうでないのですよ」「そうでないとはどういうのかえ?」「つまりお北さんはお二人さんを、一しょに可愛がっているのですよ」「へえ、そんな事が出来るものかね」「お北さんには出来ると見えて、甚三さんは捨てられない、富士様とも離れられない、こういっているのでございますよ」「――つまり情夫《いろ》と客色《きゃくいろ》だな」「いいえどっちも本鴨《ほんかも》なので」「ははあ、それじゃお北という女郎は、金箔つきの浮気者だな」「浮気といえば浮気でもあり真実といえば大真実、どっちにしても天井《てんじょう》抜けの、ケタはずれの女でございますよ」「ちょっと面白いきしょう[#「きしょう」に傍点]だな」「面白いどころか三人ながら、大苦しみなのでございますよ」「三人とは誰々だな?」「お北さんと富士様と、甚三さんとでございますよ」「それじゃ何か近いうちに、恐ろしいことが起こって来るぞ」「内所《ないしょ》でもそれを心配して、ご相談中なのでございますよ」

    追分宿の七不思議

「相談とは何を相談かな?」「甚三さんは土地のお方、これはどうも断ることが出来ぬ。金使いも綺麗、人品もよく、惜しいお方ではあるけれど、富士様の方はフリの客、いっそご出立を願おうかってね」「それが一番よさそうだな。そうだ、早くそうした方がいい。しかし素直に行くかしら?」「それはあなた、行きますとも。人柄《ひとがら》のお方でございますもの」「ふうん、あれが人柄かな。人柄のお方に見えるかな。私《わし》には怪しく思われるがな」
 するとお杉はニヤニヤしたが、「その怪しいで思い出した。この追分の七不思議、あなたご存知じゃございませんかね」「ナニ追分の七不思議? いいや一向聞かないね」「それじゃ話してあげましょうか。まず隣室《となり》の観世様」「観世様が何故不思議だ?」「あんまり鼓がお上手ゆえ」「なるほどこれはもっともだ」「それから馬子の甚三さん」「はあて追分がうま過ぎるからか」「それから唖《おし》娘のお霜さん。あんな可愛い様子でいて、物がいえないとは不思議だとね」「うん、そうしてその次は?」「綺麗すぎる富士甚内様」「これは確かに受け取れた」「心の分らないお北さん」「いかにもいかにもこれも不思議だ。さてその次は何者だな?」「このお杉だと申しますことで」「アッハハハハ、これは秀逸《しゅ
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