おります。妾の領地でございます。経営の手を待っております。男子一生の仕事として、これほど愉快で華々《はなばな》しいことは、他にあろうとは思われません。そこへ君臨してくださいましと。……すると最初観世様は、妾の恋をお疑いなされ、信じようとはなさいませんでした。でもとうとうお信じくだされ、やがてこのように仰せられました。『よし、お艶、俺は信じる。お前と一緒にその島へ行こう。俺は前から望んでいたのだ! 牢屋へはいるか海外へ行くか、この二つを選びたいとな! 俺は退屈で仕方なかったのだ。その退屈は慰められよう。さあ俺を牢から出せ。俺はお前達の大将となろう。そうしてお前を妻にしよう』――で、あの方は只今では、妾の良人《おっと》でございます。南洋へ参るのでございます」
この時別荘の四方にあたって、鬨の声がドッと上がった。秋山要介の軍勢が、赤格子征めに取りかかったのであった。
堂々浮かび出た赤格子の巨船
お艶はニコヤカに微笑したが、
「あれは敵でございます。妾達の敵でございます。あの人達の征めて来ることは、解っていたのでございます。父が活きてさえおりましたら、蹴散らしてしまうでございましょう。妾は嫌いでございます。血を見るのが嫌いなので。そうして妾の恋しいお方も、お嫌いなのでございます。で、別荘はあの人達に明け渡してやるつもりでございます。決して逃げるのではございません。大きなものへ向かうために、小さいものを見棄てますので。あの人達にも神様のめぐみが、どうぞどうぞありますよう。そうして、あなた、平手様には、さらにさらにもっともっと、神様のおめぐみがございますように! 妾はクリスチャンでございます。そうして只今は観世様も。――あなたの厚いご友情は、観世様へ伝えるでございましょう。どんなにかお喜びでございましょう。……もう行かなければなりません。待ちかねていることでございましょう。……ごめんください平手さま! さようならでございます。神の恩寵《おんちょう》あなたにありますよう。……一間ほどお下がりくださいまし。それではあぶのうございます。……ああそれからもう一つ、船出をご覧遊ばしたいなら、別荘の北、海の岸、象ヶ鼻へお駈けつけくださいまし。岩は人工でございます。開閉自由でございます。大きな湾がありますので。この別荘は湾の上に、造られてあるのでございます。父が造ったのでございます。父は科学者でございました。どんなことでも出来ましたので。……いよいよお別れでございます」
再びドッと鬨の声! 館へ乱入する足の音! 石壁を破壊する槌《かけや》の音!
「さようならよ! さようならよ!」
叫びながらお艶は手を上げて、石壁の一点へ指を触れた。と、お艶の足の下、一間四方の石床が、音もなくスーと下へ下がった。今日のエレベーター、そういう仕掛けがあったのであった。その時洞然と音を立てて、さすが堅固の石壁も、槌《かけや》に砕かれて飛び散った。ムラムラと込み入る賊の群、それと引き違いに飛び出した造酒、敵と間違えて追い縋る賊を、刀を抜いて切り払い、象ヶ鼻へ走って行った。
ここは絶壁象ヶ鼻、太平洋の荒浪が、岩にぶつかり逆巻いていた。と、ゴーゴーと音がした。蝶つがいで出来た大扉が、あたかも左右にひらくように、今、岩が濤《なみ》を分け、グ――と左右へ口をあけた。と、濛々《もうもう》たる黒煙り。つづいて黒船の大船首。胴が悠々と現われた。一本|煙突《チムニイ》二本マスト、和船洋風取りまぜた、それは山のような巨船であった。船首に篝《かがり》が燃えていた。その横手に一人の武士が、牀几に端然と腰かけていた。他ならぬ観世銀之丞であった。その傍らにお艶がいた。と、象ヶ鼻の岩上から、
「観世!」と呼ぶ声が聞こえて来た。平手造酒の声であった。闇にまぎれて立っているのだ。銀之丞は牀几から立ち上がった。
「おお平手!」と彼はいった。「おさらばだ、機嫌よく暮らせ!」
「航海の無事を祈るばかりだ!」
「有難う! お礼をいう! 遠く別れても友情は変らぬ!」「お互い愉快に活きようではないか!」
「新天地! 新天地! それが俺を迎えている! 生活は力だ! 俺は知った!」「ふさぎの虫など起こすなよ!」「過去の亡霊! 大丈夫!」「おさらばだ! おさらばだ!」
「平手様、さようなら!」お艶の声が聞こえて来た。
「お艶どの、さようなら!」
船は沖へ駛《はし》って行った。
間もなく大砲の音がした。森田屋の賊船が襲ったのであった。それを二発の大砲で、苦もなく追っ払ってしまったのであった。
恋の船、新生活の船、銀之丞とお艶の黒船は、明けなんとする暁近《あけちか》い海を、地平線下へ消えて行った。
因果応報悪人の死
物語りは三月経過する。
桜の花が咲き出した。春が江戸へ訪ずれて来た。この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も杓子《しゃくし》も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には都鳥《みやこどり》が浮かび、梅若塚には菜の花が手向《たむ》けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら棹《さお》さしていた。
一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。
「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局|囲《かこ》もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」
パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一|服《ぷく》ということになった。
「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな?」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。
「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか? ふうむ、どこで捕えたな?」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ?」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね?」一閑斎は眼を見張った。
「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな?」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であった。で一閑斎は平八の言葉を、是認せざるを得なかった。
そこへ下男の八蔵が、眼の色を変えて飛んで来た。「旦那様、大変でございますよ。あの綺麗な浪人の内儀が、しごきを梁《はり》へ引っかけて、縊《くび》れているじゃありませんか」
「おっ、ほんとか、そりゃあ大変だ!」一閑斎は仰天した。
「郡上氏、行ってみましょう」あわてて庭下駄を突っかけた。二人がその家へ行った時には、見物が黒山のようにたかっていた。病《や》みほうけても美しい。油屋お北の死骸《なきがら》は、赤いしごきを首に纏《まと》い、なるほど梁《はり》から下がっていた。
壁に無数の落書きがあった。「ゆるしてください。恐ろしい」「馬子甚三」「信濃追分」「南無幽霊頓証菩提」「もう、わたしは生きてはいられない」「あの人、あの人、あの人、あの人」
意味のわからない落書きであった。
検死の結果は自害となった。乱心して死んだということになった。ただしどうして乱心したかは、誰も知ることは出来なかった。
「春になると自殺者が多い」平八は憮然として呟いた。
「いい女だったのに惜しいことをした」こういって一閑斎は苦笑したが、「亭主の浪人はどうしたかな?」
その浪人は殺されていた。それの解ったのは翌朝のことで、隅田堤の桜の幹へ、五寸釘の手裏剣で、両眼と咽喉《のど》とを縫いつけられていた。
奇抜といおうか惨酷といおうか、その不思議な殺され方は、江戸市中の評判となった。
「いったい誰が殺したのだろう?」人々はこういって噂した。
もちろん甚内が殺したのであった。兄の敵の富士甚内を、浅間甚内が殺したのであった。
浅間甚内復讐を語る
どんな具合に巡り会い、どんな塩梅《あんばい》に立ち合って、兄の敵を討ったかについては、彼は恩師たる千葉周作へ、次のように話したということである。
「……とうとう本望をとげました。先生のお蔭でございます。一生忘れはいたしません。兄もどんなにか草葉の蔭で、喜んでいることでございましょう。おそらく修羅《しゅら》の妄執《もうしゅう》も、これで晴れたことでございましょう。……では、どうして敵と出会い、どんな具合に討ち止めたか、お話しすることに致します。なかばは偶然でございました。そうして後の半分は妹のおかげでございます。……追分をうたい、市中を流し、敵を目付けておりますうち、ふと隅田の片ほとり、小梅の里のみすぼらしい家に、お北によく似た若い女を、見掛けたことがございました。でもそれはたった一度だけで、後はいつもその家は、雨戸がしまっておりましたので、見かけることは出来ませんでした。それでも気になるところから、毎夜のようにそのあたりを、彷徨《さまよ》ったものでございます。そのうち秋が冬となり、年が明けて春となり、昨夜となったのでございますが、いつもの通りお霜を連れて、信濃追分をうたいながら、隅田の方へ参りました。そうしてその家の前に立ち、しばらく様子をうかがってから、堤を歩いて行きました。と、ご承知のようによい月夜で、おりから桜は満開ではあり、つい私はよい気持ちになり、次々にうたいながら歩いて行きますと、後の方から何者か、つけて来るではございませんか。ふと振り返って見ましたが、それらしい人の影もない。不思議なことと思いながら、また歩いて行きますと、やっぱり足音が致します。春の月夜にうかれ出た。狐か狸のいたずらであろうと、そのまま歩いて参りますと、ピタピタピタピタと足音が、近付いて来るではございませんか。で、振り返ってみましたところ、山岡頭巾で顔を包んだ、一人の武士が一間の背後《うしろ》に、追い逼っているではございませんか。ハッと思ったものでございます。と、いうのはその武士が、刀の柄をシッカリと、握っていたからでございます」
光風霽月大団円
「『ははあこいつが噂に高い、辻斬り強盗の張本だな』と、私は突嗟《とっさ》に思いましたが、よい気持ちはいたしませんでした。で、自然と右の手が、懐中へ忍ばせた手裏剣へ、つと走ったものでございます。すると突然妹のお霜が、千切れるような声を上げ、私の袖をグイグイと、三度引くではございませんか! 『うん』と私は呻きました。合図だったからでございます。……富士甚内を目っけたら、三度袖を引くようにと、教え込んで置いたからでございます。素早《すばや》くこいつが敵かと、躍り立った一|刹那《せつな》『亡霊追分、正体見た! 二つになれ!』とその武士が、サッと斬り込んで参りました。その太刀風の物凄さ、なんで私に避けられましょう。真っ二つにされた筈でございます。ワッ、やられた! と叫びながら、足もとを見ると妹のお霜が、真《ま》っ向《こう》から胸板まで、切り割られて仆れておりました。身代りになったのでございます。私をかばう一心から、飛び込んで来た
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