笑った。審判席からも声が掛からない。で藤作はツト退いた。じっと双方睨み合った。
「小手!」とばかり藤作は、再度相手の急所を取った。
「擦った」と田舎者はまたいった。嘲けるような声であった。審判席からは声が掛からない。
 またも双方睨み合った。
「面!」と一|声《せい》藤作が、相手の懐中《ふところ》へ飛び込んだとたん、
「野郎!」という劇しい声がした。その瞬間に藤作は、床の上へ尻餅を突いた。プーンときな臭い匂いがして、眼の前をキラキラと火花が飛び脳天の具合が少し変だ。「ははあ、おれは打たれたんだな」……そうだ! 十二分にどやされたのであった。
「勝負あった」と審判席から、はじめて定吉の声がした。
「参った」といったものの秋田藤作は、どうにも合点がいかなかった。いつ撲られたのかわからなかった。
 審判席では定吉が、眉をしかめて考え込んだ。
「これは普通の田舎者ではない。十分腕のある奴らしい。道場破りに来たのかも知れない。それにしても不思議な剣脈だな。動かざること山の如しだ。それにただの一撃で、相手の死命を制するという、あの素晴らしい意気組は、尋常の者には出来ることではない。……迂濶《うかつ》な相手は出されない。……観世氏、お出なさい」
「はっ」というと観世銀之丞は物臭さそうに立ち上がった。

    観世銀之丞引き退く

 観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても英発《えいはつ》し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も稀《まれ》となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。
 道具を着けるとしない[#「しない」に傍点]を取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、しない[#「しない」に傍点]としない[#「しない」に傍点]とを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。
「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の位所《くらいどころ》はえ?」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大
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