などはないのだ。おれは神秘を信じない。だから、だから、退屈だともいえる」

    後朝《きぬぎぬ》の場所|桝形《ますがた》の茶屋

 千三屋は無意味に笑ったが、その眼をキラリと床の間へ向けた。そこに小鼓が置いてあった。それへ視線が喰い入った。

 北国街道と中仙道、その分岐点を桝形といった。高さ六尺の石垣が、道の左右から突き出ていて、それに囲われた内側が、桝形をなしているからであった。これは一種の防禦堤なので、また簡単な関所でもあった。ここを抜けて左へ行けば、中仙道へ行くことが出来、ここを通って右へ行けば、北国街道へ出ることが出来た。でこの桝形へ兵を置けば、両街道から押し寄せて来る、敵の軍勢をささえることが出来た。大名などが参府の途次、追分宿へとまるような時には、必ずここへ夜警をおいて非常をいましめたものであった。しかし桝形はそういうことによって、決して有名ではないのであった。つるが屋、伊勢屋、上州屋、武蔵屋、若菜屋というような、幾つかの茶屋があることによって、この桝形は名高かった。いつづけの客や情夫《おとこ》などを、宿の遊女《おんな》達はこの茶屋まで、きっと送って来たものであった。つまり桝形は追分における、唯一の後朝《きぬぎぬ》の場所なので、「信州追分桝形の茶屋でホロリと泣いたが忘らりょか」と、今に残っている追分節によっても、そういう情調は伺われよう。大正年間の今日でも、ややそのおもかげは残っていた。一方の石垣は取り壊され、麦の畑となっているが、もう一つの石垣は残っていた。そうして上州屋、つるが屋等の、昔ながらの茶屋もあった。つるが屋清吉の白壁に「桝形」と文字《もんじ》が刻まれてあるのは、分けても懐しい思い出といえよう。なお街道の岐道《わかれみち》には、常夜燈といしぶみとが立っていた。
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右|従是《これより》北国街道 東二里安楽追分町 左従是中仙道
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 こう石標《いしぶみ》には刻まれてあるが、これも懐しい記念物であろう。
 さてある夜若菜屋の座敷に、客と遊女とが向かい合っていた。客は美貌の富士甚内で、遊女は油屋のお北であった。別離《わかれ》を惜しんでいるのであった。二人の他には誰もいない。人を避けて二人ばかりで、酒を汲み交わせているのであった。
「お北、いよいよおさらばだ」甚内は盃を下へ置いた。「いうだけの事はいって
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