この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も杓子《しゃくし》も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には都鳥《みやこどり》が浮かび、梅若塚には菜の花が手向《たむ》けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら棹《さお》さしていた。
一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。
「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局|囲《かこ》もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」
パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一|服《ぷく》ということになった。
「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな?」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。
「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか? ふうむ、どこで捕えたな?」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ?」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね?」一閑斎は眼を見張った。
「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな?」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であ
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