れようともせず、水のように冷然と立っていた。

    その後の観世銀之丞

「父はこの世にはおりません」やがてお艶が咽ぶようにいった。「父さえ活きておりましたら。……中風で斃れたのでございます。……つづいて母が死にました。そうしてそれ前に可愛い弟の六蔵が死んでしまいました。心臓で死んだのでございます。そうして母の死んだのは、悲しみ死になのでございます。……名に謳《うた》われた赤格子も、妾《わたし》一人を後に残し、死に絶えてしまったのでございます。永い年月苦心に苦心し、ようやく出来あがった黒船へも、乗ることが出来ずに死にましたので。……それはそうとあなた様は、平手造酒さまでございましょうね?」
 図星を指されて平手造酒は、思わず大きく眼を見開いた。
「お驚きになるには及びません」お艶は微笑を含んだが、「観世さまからこの日頃、お噂を承まわっておりました。それとそっくりでございます。それに鞘文《さやぶみ》をご覧になり、この『主知らずの別荘』へ、すぐに踏み込み遊ばすような、そういう勇気のあるお方は、平手様以外にはございません。……それはとにかく観世さまは、只今はご無事でございます。そうして現在は黒船の上に、妾達一統の頭領として、君臨しておられるのでございます。……いえいえ嘘ではございません。どうぞお聞きくださいまし。みんなお話し致しましょう。でも時間がございません。出帆しなければなりませんので。妾の行衛《ゆくえ》が知れないので、騒いでいることでございましょう。……それではほんの簡単に、申し上げることに致しましょう。……今年の秋の初め頃、妾達はこの地へ参りました。妾達の本当の国土といえば、南洋なのでございます。そうして妾はその南洋で成長したものでございます。ボルネオ、パプア、フィリッピン諸島に、とりまかれているセレベス海に、妾達の国土はございますので。どうして日本に参りましたかというに、父の財産がそっくりそのまま日本に残してございましたからで。それを南洋へ移したいために、やって参ったのでございます。……この地へ参ったその日のうちに、妾はあの観世様を愛するようになりました。どうぞおさげすみくださいますな。妾のような異国育ちのものは、愛とか恋とかいうようなことを、憚からず申すものでございますから。……するとある晩観世様が、別荘へ迷って参られました。そうして父と逢いました。そうし
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