賊を、将軍たるものが助けたとあっては、上《かみ》ご一人に対しても、下《しも》万民に対しても、申し訳の立たない曲事であった。
「これが世間へ洩れようものなら、どんな大事が起ころうもしれぬ。早く手当をしなければならない」――で倉皇《そうこう》として家へ帰った。

    ようやくわかった切り髪の女

「旦那お家でござんすかえ」
 ご用聞きの松五郎が、こういいながら訪ねて来たのは、その同じ日の午後のことであった。「おお小松屋か、こっちへはいれ。……どうだ、大分寒くなったな」
 玻璃窓の平八は炬燵の上で、市中図面を見ていたが、物憂そうに声をかけた。
「へい、有難う存じます。ではご免を蒙《こうむ》りまして。おや何かお調べ物で?」
「ナーニ江戸の図面だよ。俺《わし》も近頃は暇だからな、所在なさに見ているやつさ」
「お暇は結構でございますな」「やむを得ない暇なのさ」「やむを得ないはいけませんな」
 すると平八は苦笑したが、「俺もこの頃はヤキが廻ったよ。どうも一向元気がない」「いよいよもっていけませんな」「と、いうのもあの事件|以来《から》だ」「鼓賊からでございますかな?」
 すると平八は頷いたが、「こう目星が外れては、俺もねっから[#「ねっから」に傍点]値打ちがないよ」
「実はね、旦那。その事について、よい耳をお聞かせにあがったんで」小松屋松五郎は膝を進めた。
「ふうん、そうかい、そいつは有難いね」
「旦那、目星がつきましたよ。切り髪女の目星がね」
「ほほう、そいつは耳よりだな」平八の顔は輝いた。「で、もちろん小屋者だろうな?」
「へい、両国の女役者で」
「そいつは少し変じゃないか。両国橋の小屋者なら、とうに悉皆《しっかい》洗ってしまった筈だ」
「ところが最近別の一座が、新規に掛かったのでございますよ」
「ううむ、そうか、そいつは知らなかった」
「旦那としてはちょっと迂濶《うかつ》だ」
「まさに迂濶だ、一言もない。それというのもこの事件では、気を腐らせていたからさ。……ひとつ詳しく話してくれ」
「ところが旦那、詳しいところは、まだわかっていませんので。実はこうなのでございますよ。……それもきのうのひるすぎですが、ちょっと野暮用がありましてね、両国を通ったと覚し召せ。ふと眼についた看板がある。わっち[#「わっち」に傍点]はおや[#「おや」に傍点]と思いやした。その芸題《げだい》が面
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