ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」
止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか?
銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。
ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で囁《ささや》いていた。
何をいったい囁き合ったのか? 何をいったい相談したのか? それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。
しかも邸内誰一人として、それを怪しんだものがない。もっとも彼らはその夜遅く、金属製の大きな戸が、深い深い水の底で、重々しく開くような音を聞いた。
が、誰一人それについて、噂しようともしなかった。
で、邸内は平和であった。無為《むい》に日数が経って行った。
全く不思議な邸ではある。
だが銀之丞はどうしたのだろう? いずれは恐ろしい運命が、彼を見舞ったに相違ない。はたして生きているだろうか? それとも死んでしまっただろうか? 死んだとしたら殺されたのであろう。
可哀そうな彼の運命よ!
だが私の物語は、ここから江戸へ移らなければならない。
家斉《いえなり》将軍と中野|碩翁《せきおう》
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赤い格子に黒い船
ちかごろお江戸は恐ろしい
[#ここで字下げ終わり]
こういう唄が流行《はや》り出した。
十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。
恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。
時の将軍は家斉《いえなり》であったが、ひどくこの唄を気にかけた。
「不祥の唄だ、どうかしなければならない」
こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。
「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。
ある日お気に入りの中野碩翁《なかのせきおう》が、ご機嫌うかがいに伺候した。
「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。
「変ったこともございませんな」
碩翁の方
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