けげん》な顔をした。
「はい、こうなのでございます。ご承知の通り私《わたし》の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、音《おん》に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の船首《へさき》に立ち、故郷《くに》のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」
「ふうんなるほど、面白いな」
「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」
「弟ヤーイ、うんなるほど」
「『お前のいったこと中《あた》ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」
「それはいったいどういう意味だ?」
「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」
「不思議だなあ、不思議なことだ」
「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、攫《さら》って行ったに違《ちげ》えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」
「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな?」
「今年の夏でございます」
「その後一度も帰ったことはないか?」
初めて知った甚三の死
「はい一度もございません」
「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」
「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、故郷《くに》を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」
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