、それから目差す鉢伏山だ。
鉢伏山の中腹で一同割籠をひらくことになった。見渡す限りの満山の錦、嵐が一度《ひとたび》颯《さっ》と渡るや、それが一度に起き上がり億万の小判でも振るうかのように閃々燦々《せんせんさんさん》と揺れ立つ様はなんとも云われない風情《ふぜい》である。
「よろしゅうござるな」
「いや絶景」
と、弓之進も北山も満足しながら瓢の酒を汲み合った。
その時突然供の者どもが一度にワッと立ち上がった。
「熊! 熊!」と騒ぎ立つ。
「何、熊?」と弓之進は、若党の指差す方角を見ると横手の谷の底に当たって真っ黒の物が蠢《うごめ》いている。いかさま熊に相違ない。あっ[#「あっ」に傍点]と見るまに大熊はこっちを目掛けて駈け上がって来る。
「金吾、弓を!」と弓之進は若党を呼んで弓を取った。名に負う鏡弓之進は、高遠《たかとお》の城主三万三千石内藤|駿河守《するがのかみ》の家老の一人、弓は雪河流《せっかりゅう》の印可《いんか》であるが、小中黒《こなかぐろ》の矢をガッチリとつがえキリキリキリと引き絞ったとたん、
「待った待った射っちゃいけねえ!」
鋭い声が聞こえて来た。
何者とばかり放す手を止め声のした方をきっと見ると、ひと群《むら》茂った林の中から裸体《はだか》の壮漢が飛び出して来た。信濃《しなの》の秋は寒いというに腰に毛皮を纏《まと》ったばかり、陽焼けて赤い筋肉を秋天の下に露出させ自然に延ばしたおどろ[#「おどろ」に傍点]の髪を房々と長く肩に垂れ、右手《めて》に握ったは山刀、年はおよそ十七、八、足には革草鞋《かわわらじ》を穿いている。
「射《や》っちゃアいけねえ射っちゃいけねえ! ここで射《や》られてたまるものか。せっかく俺《おい》らが骨を折って八ヶ嶽から追い出して来た熊だ。他人《ひと》に取られてたまるものか……さあ野郎観念しろ! いいかげん手数をかけやがって! 猪太郎様の眼を眩《くら》ませうまうま他領へ逃げようとしたってそうは問屋でおろさねえ!」
詈《ののし》り詈り熊を追い、追い縋《すが》ったと思ったとたんパッと背中へ飛び乗った。
「オーッ」と熊も一生懸命、後脚で立って振り落とそうとする。
「どっこいどっこいそうはいかねえ! これでも喰らって斃《くたば》りゃあがれ!」
キラリ山刀が閃《ひらめ》いたかと思うと月《つき》の輪《わ》の辺から真っ赤な血が滝のように迸《ほとばし》った。
「オーッ」と熊はまた吠えたがこれぞ断末魔の叫びであったかドタリと横へ転がった。
「どうだ熊公驚いたか。一度俺に睨まれたが最後トドの詰まりはこうならなけりゃならねえ。アッハハハ、いい気持ちだ。どれ皮でも剥《は》ごうかい」
熊の死骸を仰向けに蹴り返しその前へむずと膝を突くとブッツリ月の輪へ山刀を刺した。と、その時、どうしたものか俄然《がぜん》空を仰いだが、
「お母様!」
と一声叫ぶとそのままグッタリ仆れてしまった。
余り見事な格闘振りに弓之進や北山を初めとし弟子若党|使僕《こもの》までただ茫然と眺めていたがこの時バラバラと駈け寄った。
「北山殿、脈を早く!」
「心得たり」と北山は若者の手首をぐいと握ったが、
「大丈夫、脈はござる」
「それで安心。よい塩梅《あんばい》じゃ」
「あまりに精神を感動させその結果気絶をしたのでござるよ」
「手当の必要はござらぬかな?」
「このままでよろしい大丈夫でござる。や! なんだ! この痣《あざ》は!」
云いながら北山は若者の手をグイと前へ引き寄せた。いかさま右の二の腕に上下|判然《はっき》り二十枚の歯形が惨酷《むごたら》しく付いている。
「人間の歯ではござらぬかな?」
「さよう、人間の歯でござる」
この時、気絶から甦《よみがえ》ったと見え、若者はにわかに動き出した。まず真っ先に眼をあけて四方《あたり》を不思議そうに見廻したが、
「ああ恐ろしい夢を見た」
こう云うとムックリ起き上がった。それから弓之進をじっと[#「じっと」に傍点]見た。その逞《たくま》しい顔の面《おもて》へ歓喜の情があらわれたと思うと突然若者は両手を延ばし、
「お父様!」
と呼んだものである。それからまたも気を失い、熊の死骸へ倚《よ》りかかった。
この時、忽然《こつぜん》弓之進は、以前《まえかた》死んだ葉之助が、「代りが来るのだ! 代りが来るのだ! 次に来る者はさらに偉い!」と末期《いまわ》に臨んで叫んだことを偶然《ゆくりなく》も思い出した。
「うむ、そうか! こいつだな!」
……ポンと膝を叩いたものである。
翌年の秋、鏡家へ飯田の城下から養子が来た。
堀|石見守《いわみのかみ》の剣道指南南条右近の三男で同苗《どうみょう》右三郎《うさぶろう》というのであったが、鏡家へ入ると家憲に従い葉之助と名を改めた。
三
「
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