のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血! 深紅の水溜りが地面へ出来た。
だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、賽銭《さいせん》の音、何んの変ったこともない。
両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。
笠森の茶店の牀几《しょうぎ》の上で、脇腹を突かれた女房があった。
千住の遊廓《くるわ》では嫖客《ひょうかく》が、日本橋の往来では商家の手代が、下谷池之端《したやいけのはた》では老人の易者が、深川木場では荷揚げ人足が、本所|回向院《えこういん》では僧が殺された。
江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。
南北町奉行が大いに周章《あわ》てて、与力同心岡っ引が、クルクル江戸中を廻り出した。
どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば狂人《きちがい》の刃傷、……こんなように思われるこの事件は、有司にとっては苦手であった。
で容易に目付からなかった。
まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。
だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。
内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。
だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が供揃《ともぞろ》いの中から、にわかに姿を眩《くら》ましただけであった。
鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。
八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。
三〇
彼はいったいどうしたのだろう? いったいどこへ行ったのだろう?
彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。
彼は母山吹の故郷《さと》! 彼《か》の血統窩人の部落! 信州八ヶ嶽笹の平へ、夢遊病者のそれのように、フラフラと歩いて行ったのであった。
塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を故意《わざ》と避け、山伝いに湖東村を通り、北山村から玉川村、本郷村から阿弥陀ヶ嶽、もうこの辺は八ヶ嶽で、裾野《すその》がずっと開けていた。
三日を費やして辿《たど》り着いた所は、笹の平の盆地であった。
以前《まえかた》訪ねて来た時と、何んの変わったこと
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