《そむ》け合った。しかし体はその反対に相手の方へ寄って行った。胸が恐ろしく波立って来た。そうして手先が幽《かす》かに顫え、燃えるように身内が熱くなった。

         二

 やっぱり二人は黙っていた。
 もし迂濶《うかつ》に物でも云って、そのため楽しいこの瞬間が永遠に飛び去ってしまったなら、どんなに飽気《あっけ》ないことだろうと、こう思ってでもいるかのように、二人はいつまでも黙っていた。
 若さと美貌と勇気と名声、これを一身に兼備している葉之助のような人物こそは、お露のような乙女にとっては、無二の恋の対象であった。ましてその人は家のためまた大事な父のためには疎《おろそ》かならぬ恩人である。――で、一眼見たその時から、お露は葉之助に捉《とら》えられた。時が経つにしたがってその恋心は募って行った。葉之助を家へ招くように父に勧めたというのも、この恋心のさせた業であった。
 今こそ心中を打ち明けるにはまたとない絶好の機会である。場所は庭の中の亭《ちん》である。すぐ側に恋人が坐っている。美しい夕月の宵《よい》である。二人の他には誰もいない。……しかし、彼女は処女であった。そうして性質は穏《おとな》しかった。無邪気に清潔《きよらか》に育てられて来た。どうして直接《うちつけ》に思う事を思う男へ打ち明けられよう。
 葉之助にとってはこれまでは、このお露という美しい娘は淡い恋の対象に過ぎなかった。ただ時々思い出し、思い出してはすぐ忘れた。しかるにこの日招かれて来て、そうして彼女に会って見て、そうして彼女から卒直《いっぽんぎ》の恋の素振《そぶ》りを見せられて、始めて彼は身を焼くような恋の思いに捉えられた。彼は彼女に唆《そそ》られたのである。恋の窓を開かれたのである。
 彼のような性質の者が、一旦恋心を唆られると坂を転がる石のように止どまるところを知らないものである。……欝勃《うつぼつ》たる覇気、一味の野性、休火山のような抑えられた情火、これが彼の本態であった。しかし彼は童貞であった。どうして直接《うちつけ》に思うことを思う女へ打ち明けられよう。
 で、二人は黙っていた。しかし二人は二人とも、相手の心は解っていた。不満ながらも満足をして二人は黙っているのであった。

「これ葉之助、ちょっと参れ」
 ある日父の弓之進が、こう葉之助を部屋へ呼んだ。
「は、ご用でございますか?」
「お
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