毎夜その掟を破り他出する者がござるとのこと、何んと不都合ではござらぬかな」
「いやいや決してさような者、諏訪家家中にはおりませぬ」
「いやいや家中の侍衆《さむらいしゅう》ではない。ご一門中の立派なお方だ」
「はて、どなたでございましょうや?」
「すなわち若殿頼正公」
「あッ、なるほど!」と思わず云って門番はキョトンと眼を丸くした。
「何んとでござるな。一言もござるまい」
葉之助は笑ったものである。
「いや一言もござりませぬ」
「しからば開門なさるよう」
「やむを得ぬ儀、いざお通り」
ギーと門番は門を開けた。ポンと潜った葉之助は、昼間あらかじめ調べて置いた、野良の細道をサッサッと神宮寺村の方へ歩いて行く。遅い月が出たばかりで野面《のづら》は蒼茫《そうぼう》と光っている。微風に鬢《びん》の毛を吹かせながら急《せ》かず焦心《あせ》らず歩いて行くものの心の中ではどうしたものかと、策略を巡らしているのであった。
間もなく遥かの行手に当たって水狐族の部落が見渡された。家数にして百軒余り、人数にして三百人もあろうか、今はもちろん寝静まっていて人影一つ見えようともしない。夜眼にハッキリとは解らないが、家の造り方も尋常《なみ》と異《ちが》い、きわめて原始的のものらしく、ひときわ眼立つ一軒の大厦《たいか》は、部落の長の邸であろう。あたかも古城のそれのように、千木《ちぎ》や勝男木《かつおぎ》が立ててある。そうして屋根は妻入式《つまいりしき》であり、邸の四方に廻縁《かいえん》のある様子は、神明造りを想わせる。
と、忽然《こつぜん》その辺から音楽の音《ね》が聞こえて来た。
「はてな?」と呟いて葉之助は思わず足を止めたものである。
二三
音楽の音は幽《かす》かではあるが美妙《びみょう》な律呂《りつりょ》を持っている。楽器は羯鼓《かっこ》と笛らしい。鉦《かね》の音も時々聞こえる。
葉之助はしばらく聞いていたがやがて忍びやかに寄って行った。木蔭に隠れて向こうを見ると、神明造りの館の庭に数人の女が坐っていたが、いずれも若い水狐族の女で、一人は笛、一人は羯鼓、一人は鉦を叩いている。そうして一人の老年《としより》の女が、その中央《まんなか》に坐っていたが何やら熱心に祈っているらしい。チン、チン、チンと鉦の音、カン、カン、カンと羯鼓の音、それを縫って笛の音がヒュー、ヒュー
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