今度は流石に落胆《がっか》り[#「落胆《がっか》り」は底本では「落胆《がっかり》り」]して四郎は足を止めましたが、併し何うにも名残惜くて引っ返えす気にもなりませんでした。
 其時老人は手を上げて二、三度四郎を招きましたが「小僧!」と復も呼ぶのでした。
 それで復もや元気を出して四郎は其方へ走って行きました。
 併し全く不思議なことには何んなに四郎が走っても何うしても老人へは追い着けません。その癖老人は疲労れた足つきでノロノロ歩いているのです。
 小川を越すと広い野となり野を越すと小高い丘となり丘の彼方は深い林で白い色の見えますのは辛夷の花が咲いているのでしょう。
 やがて夕暮となりました。ケンケンと鳴く雉子の声。ヒューと笛のような鶴の声。塒を求める群鴉の啼音が、水田や木蔭や夕栄の空から物寂く聞えて来て人恋しい時刻となりました。
 尚老人は歩いて行く。で四郎も走って行く。こうして半刻も経った頃には夕陽が消え月が出て四辺は蒼白くなりました。
 その時初めて老人は立止まったのでございます。
 其処は山の裾野でしたが、枯草の上へ胡座を掻き満月を背に負った老人の姿は妖怪《もののけ》のようでございます。
「おい小僧、此処へ坐われ」
 近寄る四郎の姿を見ると斯う老人は云いました。
「貴様の名は何んと云う?」
「増田四郎と申します」
 痴《おろか》ながらも姓名だけは四郎も知って居りましたので、老人の側へ坐わり乍ら斯う無邪気に云ったものです。

     三

「何んの為に此処まで来たな?」
 四郎は黙って笑っています。
「もっと芸当を見たいからか?」
「はい」と四郎は頷きました。
「よしよし夫れでは見せてやろう。いや可愛い美少年じゃ。お前のような美童の前では俺の芸当も逸むというものじゃ」
 老人はこんな事を云い乍ら少し居住居を正しましたが、光清らかの月に向かってホーッと長い息を吐きました。と其呼吸は薄紫の一条の橋となりまして月へ懸ったではありませんか。併し不思議は夫ればかりで無く、円い満月の真中所にポッツリ点が出来ましたが夫れは何うやら穴らしく、そこから一人の老人がスッポリ体を抜け出すと橋の上へ下り立ちました。
 だんだん此方へ遣って参ります。
 見ている中に老人は地上間近く近寄りましたが、よくよく[#「よくよく」に傍点]見れば其の老人は、今尚草の上に胡座を掻き呼吸を吐いている
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