で徳利を取って酌をします。
「さあさあ娘、立って舞い」
「はい」と云って立ち上り娘は舞をまい出しました。
 黄色い澄み切った早春の月。藪蔭で啼いている寝惚鳥。生温かい夜の風。月光を砕き風に乗り翩飜と舞う長い袖。……娘の舞は今様と見え声涼しく唄い出しました。
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春の弥生の暁に
四方の山辺を見渡せば
花盛りかも白雲の
かからぬ峰こそなかりけり
[#ここで字下げ終わり]
 繰り返えし繰り返えし三遍まで娘は唄って舞い澄ます。
 と見ると老人は眠っています。ゴロリと草の上に横になり軽い鼾さえ立てています。
「おや、お爺さんは寝入っているよ」
 娘は急に舞を止め手を叩いて笑い出しました。
「こんな事はめったに無い。出した物[#「出した物」に傍点]をうっちゃって置いて寝入って了うなんて迂濶でしょう」
 娘は面白そうに叫んだものです。

     四

「ちょいとちょいと可愛らしい坊ちゃん」
 斯う云い乍ら急に娘は四郎の側へ参りましたが如何にも早熟《ませ》た物腰で四郎の手を堅く握りました。
「妾《わたし》ね、貴郎を待っていましたのよ。ずっとずっと昔からね。遂々逢えたのね、嬉いわ。……貴郎増田四郎さんでしょう。妾の名を聞かせてあげましょうか。妾ずっとずっとの大昔|猶太《ユダヤ》という遠い国の熱い沙漠にいた頃は聖母マリアと云われていましたの。そうして今も聖母マリアよ。でもね、日本の人達は妾を大変虐めますのよ。だから迂濶々々歩けないの隠れていなけりゃならないの。……だから貴郎にお願いします。妾を自由にして下さい。隠れ場所から出して下さい」
「だって何処に隠れているの?」――四郎は不思議そうに尋ねました。
「それはね、人の胸の中に」
「マリアお姫さん。斯ういう名ね?」
「ええ、そうよ。そういう名よ。〈神の子エス・キリストの母〉斯う云ってもよいのですよ」
「大変長い名なんですね」
「愛。――斯う云ってもよいのですよ。〈人々よ互に愛し合えよ〉妾は日本の人達に斯ういう教えを説いているのですからね」
「そのお爺さんは何う云う人?」
「森宗意軒て云う人です。大変偉い人なのです。そうして妾達親子の者――エス・キリストとマリアとを大変信仰しているのですよ」
「その人、魔法を使うんですね」
「あれは切支丹伴天連の法よ」
「ああいう事|行《や》って見たいなあ」
「ええええ貴郎にも出来ま
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