]槃会《ねはんえ》の季節となった。仏教の盛んな名古屋の城下は、読経の声で充たされた。
梅が盛りを過ごすようになり、彼岸桜が笑をこぼし、艶々しい椿が血を滴らせ、壺菫《つぼすみれ》が郊外で咲くようになった。
間もなく桜が咲き出した。そうして帰雁の頃となった。
或日宗春は軽装し、愛妾お半の方を連れ、他に二三人の供を従え、東照宮へ出かけて行った。彼には斯ういう趣味があった。一方豪奢な行列を調え、城下を堂々と練るかと思うと、他方軽輩の姿をして、地下の人達と交際《まじわる》のを、ひどく得意にして、好いたものである。
東照宮は長島町にあった。城を出ると眼の先であった。
境内の桜は満開で、花見の人で賑わっていた。赤前垂の茶屋女が、通りかけの人を呼んでいた。大道商人は屋台店をひらき、能弁に功能を述べていた。若い女達の花|簪《かんざし》、若い男達の道化仮面、笑う声、さざめく声、煮売屋の釜からは湯気が立ち、花見田楽の置店からは、名古屋味噌の香しい匂いがした。
「景気は可いな。実に陽気だ」宗春の心も浮き立って来た。ぴらり帽子で顔を包み、無紋の衣裳を着ているので、誰も藩主だと気の附くものがない。それが
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