老人は立ち上った。
 寝台に添った卓《テーブル》があった。卓の上に手箱があった。それを老人は取り上げた。
「おい、お若いの、此処へ寝な。寝台の上へ寝るがいい、そうして此奴を喫うがいい」
 長い煙管を振って見せた。
「恐く無いよ。大丈夫だ、美しい夢が見られるのだ。華聟《はなむこ》の眠りという奴だ。味を知ったら忘れられまい。人生至極の幸福だ。肉身極楽へ行けるのだ。加陵頻迦《かりょうびんか》[#「加陵頻迦《かりょうびんか》」はママ、『広辞苑』では「迦陵頻伽《かりょうびんが》」]の声がしよう。天津乙女が降りて来よう。竜宮城が現出しよう。現世の苦患が忘れられよう。忽然として花が降ろう。桜も降れば蓮華も降ろうさあ寝るがいい寝るがいい」
 併し香具師は動かなかった。気味悪そうに立っていた。
「ふふん」と老人は冷笑した。「おい、お若いの、怖いのか」
「莫迦を云え」と香具師は云った。「ただ俺には不思議なのだ」
「つまり、矢っ張り怖いんだろう」
「不思議と恐怖とは少し異う」
「解らないから不思議なのだ。不思議だから怖いのだ」
「よし」
 と香具師は寝台へ行った。
「では俺を解らせてくれ」彼はゴロリと寝台へ寝た。
「感心々々そうなくてはならない。勇気のある者は冒険する。一つの冒険は一つの智だ。知って了えば怖くはない。さあ煙管を取るがいい」
 香具師は老人から煙管を取った。老人は煙管へ薬を詰めた。それからそいつ[#「そいつ」に傍点]へ火を付けた。
 芳香が部屋へ漲《みなぎ》った。
 香具師は徐々に煙を喫った。
「厭な気持だ。嘔吐きそうだ」
「ナーニ、すぐに可くなるよ」
「厭な気持だ。変に苦しい」
「そいつあ何うも仕方が無い。その薬の性質だからな。第一多少の辛抱は要るよ。辛抱しないで楽をしよう。こいつあ少し気が可すぎる」
 その中だんだん香具師は、深い眠りへ入るようであった。
 と、ボタリと煙管を落とした。いよいよ睡眠に這入ったらしい。
 じっと老人は見詰めていた。忍び足をして部屋を出た。建物の戸へ錠を下ろした。
 それから屋敷を走り出た。
 野をドンドン横切った。
 香具師の住居の百姓家、その門口まで遣って来た。チラリと四辺を見廻わした。それから裏手へ廻って行った。
 裏口の戸も閉じていた。それへ障《さわ》ろうとはしなかった。彼は足踏をやり出した。地面を足でトントンと踏んだ。そうして音を聞
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