いだのには、鳥渡面白い事件がある。
享保元年のことであったが、七代の将軍家継が僅八歳で薨去した。そこで起こったのが継嗣問題で紀州吉宗を立てようとするものと、尾州継友を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」と誤記]ようとするものと、柳営の議論は二派に別れた。そうして最初は尾州側の方が紀州党よりも優勢であった。
[#底本では1字下げしていない]で継友も其家臣も大いに心を強くしていたが俄然形勢が変わり、紀州吉宗が乗り込むことになった。
尾州派の落胆は云う迄も無い。「だが一体どういう理由から、こう形勢が逆転したのだろう?」
研究せざる[#「せざる」は底本では「せぎる」と誤記]を得なかった。その結果或る事が発見された。家臣の中に内通者があって、それが家中の内情を、紀州家へ一々報告し、それを利用して紀州家では、巧妙な運動を行ったため、成功したのだということであった。
一千石の知行取、伴金太夫という者が、その内通者だということであった。
継友が如何に怒ったかは、説明するにも及ぶまい。だが是という証拠が無かった。処刑することが出来なかった。
この頃宗春は宗家にいた。
「兄上、私が討ち果たしましょう」こう彼は継友に云った。
その夜宗春は金太夫を召し寄せ、手ずから茶を立てて賜わった。金太夫が茶椀を捧げた途端「えい!」と宗春は一喝した。驚いた金太夫は茶椀を落し、宗春の衣裳を少し穢した。
「無礼者め!」と大喝し、宗春は一刀に金太夫を斬った。「それ一族を縛め取れ!」
そこで、一族は縛め取られ、不敬罪の名の下に、一人残らず殺された。
「宗春、よく為た。礼を云うぞ」継友は衷心から、喜んだものである。
その継友も八年後には、コロリと急死することになった。その死態が性急だったので、一藩の者は疑心を抱いた。「将軍吉宗の計略で無いかな?」――それは実に大正の今日まで、疑問とされている出来事であった。
臨終にのぞんで継友が云った。「宗春には恩がある。あれ[#「あれ」に傍点]を家督に据えるよう」
こういう事情で宗春は尾州宗家を継いだのであった。
爾来尾州家は幕府に対して、好感を持つ事が出来なかった。その上宗春は活達豪放、英雄の素質を持っていた。で事毎に反対した。
「ふん、江戸に負けるものか。江戸と同じ生活をしろ」
彼は夫れを実行した。如何に彼が豪放であり、如何に彼が派手好きであったか
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