随分たくさん花木がある。いかにも風流児の住みそうな境地だ。だがそれにしてもこの屋敷は、何と荒れているのだろう。廃屋《あばらや》と云っても云い過ぎではない。世が世なら伊勢の一名族、北畠氏の傍流の主人《あるじ》、多門兵衛尉教之《たもんひょうえのじょうのりゆき》殿、その人の住まわれる屋敷だのに。……貧しい生活《くらし》をして居られると見える」
深い感慨に耽ったようである。
玄関とも云えない玄関へ立ち、「ご免下され」と声をかけた。
「はい」と女の声がして、現われたのは民弥《たみや》であった。
恭しく一礼した右近丸。
「私ことは織田家の家臣、森右近丸と申す者、弁才坊殿にお目にかかりたく、まかりこしましてござります。何とぞお取次下さいますよう」
粗末な衣裳は着ているが、又お化粧もしていないが、自然と備わった品位と美貌、案内に出たこの娘、稗女《はしため》などとは思われない、民弥という娘があるということだ、その娘ごに相違あるまい――こう思ったので右近丸は、こう丁寧に云い入れたのである。
「ようこそお越し下されました。織田様お使者おいでに就《つ》き、父に於きましても昨日《きのう》以来、お待ち致しましてござります。然《しか》るに……」
と云うと娘の民弥は三指をついて端然と坐り、頸《うなじ》を低く垂れていたが、静かに顔を振り上げた。
「一夜の違い、残念にも、お目にかかれぬ身の上に、成り果てましてござります」
「ははあ」と云ったが右近丸には、どうやら意味が解《わか》らないらしい。「それは又何故でござりますな?」
「逝去《なくな》りましてござります」
「死《なく》なられた※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 誰が※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と右近丸。
「父、多門兵衛尉」
「真実かな※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」一歩進んだ。
「真実! 昨夜! 弑《しい》せられ!」
「何!」と叫んだが右近丸は、心から吃驚《びっくり》したらしい。「弑せられたと仰有《おっしゃ》るか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そうして誰に※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 何者に※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「下手人不明にござります」
「ム――」と云ったが右近丸は思わず腕を組んでしまった。
朝風に桜が散っている。老鶯が茂みで啼いている。
それを背景にして玄関には、父を失い手頼《たよ》りのない、美しい民弥が頸垂《うなだ》れている。その前に右近丸が立っている。若くて凜々しい右近丸が。
まさに一幅の絵巻物だ。
さてその日から数日経った。
「物買いましょう、お払い物を買いましょう」
こういう触声《ふれごえ》を立てながら、京を歩いている男があった。他ならぬ香具師《やし》の猪右衛門《ししえもん》である。古道具買《こどうぐか》いに身をやつし[#「やつし」に傍点]、ノサノサ歩いているのである。
足を止めたのは南蛮寺の裏手、民弥の家の前であった。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」一段と声を張り上げて、こう呼びながら眼を光らせ、民弥の家を覗き込んだ。
11[#「11」は縦中横]
民弥の家の一つの室《へや》では二人の男女が話していた。
その一人は民弥であり、もう一人は右近丸であった。
父を失い孤児《みなしご》となった、民弥の身の上を気の毒がり、右近丸は見舞いに来たのである。しかし勿論一方では、殺された不幸の弁才坊が、生前研究した唐寺の謎の、研究材料を探し出し、主君信長公の命令通り、高価の金で買い求めようと、そうも考えて来たのであった。
窓から昼の陽が射し込んでいる。室《へや》が明るく輝いている。生前の弁才坊の研究室であり、また殺された室でもあった。秘密を保とうためなのだろう、四方板壁でかこまれた、紅毛振の室である。その一方に扉がある。紅毛振の扉である。扉と向かい合った一方の壁には、巨大な書棚が据えてある。書棚には本が積んである。巻軸もあれば帙入《ちついれ》もある。西班牙《スペイン》文字の本もある。いずれも貴重な珍書らしい。扉を背にして左の壁に、穿いているのが窓である。扉を背にして右の壁に、懸けてあるのは製図である。室の広さ十五畳敷ぐらい、そこに置かれてある器物といえば、測量機、鑿孔機《さくこうき》、机、卓、牀几《しょうぎ》というような類である。窓から投げ込まれる春の陽に、それらのものが艶々と光り、また陰影《かげ》を印《つ》けている。
極めて異国趣味の室である。
牀几に腰かけた二人の男女、民弥《たみや》とそうして右近丸《うこんまる》、清浄な処女と凜々しい若武士《わかざむらい》、この対照は美しい。
「秘密の鍵は第三の壁、こう確かに弁才坊殿には、仰せられたのでございますな?」いずれ話の続きだろう、こう訊いたのは右近丸。
「はい、さようでござ
前へ
次へ
全32ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング