だろう。あんまり気前よく承知したので、気味が悪いとでもいうのだろう。そこでいわゆる化粧泣き、そいつで機嫌を取り結び、後に祟りのないように、首尾よく別れようというのだろう。もしそうならおれは怒る!」
 若侍は睨むようにした。


    恋敵は田沼主殿頭

「というのは他でもない。おれとお前とは二年越し、馴染《なじみ》を重ねた仲だのに、あんまり心持ちが判らなさ過ぎるからよ」いっている間にも若侍の顔には自嘲の色が浮かんでいた。「アッハッハッハッ違うかな。いや違ったらご勘弁、こいつ[#「こいつ」に傍点]器用に謝《あや》まってしまう。とはいえそうでも取らなかったら、他にとりようはないじゃあないか。二人の間にはこれといって、気不味《きまず》いこともなかったのに別れ話を切り出され、しかも理由は訊くなという。ちょっと廻り気も起ころうってものさ」
 じっ[#「じっ」に傍点]と女の様子を見た。女は顔を上げなかった。耳髱《みみたぶ》がブルブル顫《ふる》えていた。色がだんだん紅くなった。バッチリ噛み切る歯音がした。鬢の垂れ毛を噛み切ったらしい。
 若侍は徳利を取った。自分の盃へ注ごうとした。その手首を握るものがあった。焔《も》えるような女の手であった。
「わたしは買われて行くのです」女は突然ぶっ[#「ぶっ」に傍点]付けるようにいった。「それをあなたは暢気《のんき》らしく、笑ってばかりおいでなさる」
「何、買われて行く? 吉原へか?」
「女郎ならまだしも[#「まだしも」に傍点]よござんす。妾《めかけ》に買われて行くのです」
「うむ、そうして行く先は?」
「はい、あなたの大嫌いな方」
「おれには厭な奴が沢山ある。人間はみんな[#「みんな」に傍点]嫌いだともいえる」
「一人あるではございませんか。とりわけ[#「とりわけ」に傍点]あなたの嫌いな人が」
「なに、一人? うむ、いかにも。が、それは大物だ」
「そのお方でございます」
「老中筆頭田沼主殿頭!」
「はい、そうなのでございます」
「それをお前は承知したのか?」
「お養母様《かあさま》が大金を。……」
「うむ、田沼から受け取ったのだな?」
「妾《わたし》の何んにも知らないうちに。……用人とやらがやって来て。……」
 若侍は立ち上がった。だがまたすぐに坐ってしまった。
「よくある奴だ。珍らしくもない。ふん。金持ちの権勢家、業突張《ごうつくば》りの水茶屋養母、その犠牲になる若い娘、その娘の情夫《いろおとこ》。ちゃんと筋立てが出来てらあ、物語の筋にある奴よ。今までは草双紙で読んでいたが、今日身の上にめぐって来たまでさ。泣くな泣くな何を泣きゃあがる」

 翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの優男《やさおとこ》。そうして風流才子であった。彼は文学が非常に好きで、わけても万葉の和歌を愛した。で今度の三崎行も西行を気取っての歌行脚《うたあんぎゃ》であった。が、これは表面《おもてむき》で、お色と別れた寂しさを、まぎらそうというのが真相であった。途中で悠々一泊し、その翌日三崎へ着いた。半漁半農の三崎の宿は、人情も厚ければ風景もよかった。小松屋というのへ宿まることにした。海に面した旅籠屋であった。
「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」
 その翌日から弓之助は、懐中硯《ふところすずり》と綴《つづ》り紙を持って、四辺《あたり》の風景を猟《あさ》り廻った。


    銅銭会茶椀陣

 しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちにこだわ[#「こだわ」に傍点]っていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の仕損《しそこな》いから主殿頭に睨まれて役付いていた鍵奉行から、失脚させられたという事が、数ヵ月前にあったからであった。
「側御用人の小身から、将軍家に胡麻《ごま》を磨り老中に上がって七万七千石、それで政治の執り方といえば上をくらまし下を搾取、ろくなことは一つもしない。憎い奴だ悪い奴だ」これが彼の心持ちであった。
「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」
 空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。
 最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。

 ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一|葉《は》茶屋で、弓之助
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