堂の裏手へ廻った。花川戸の方へ歩いて行った。どこもかしこも寝静まっていた。家々がまるで廃墟のように見えた。隅田に添って両国の方へ歩いた。一方は大河一方は家並、その家並が一所切れてこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森があった。社《やしろ》でも祀ってあるらしい。
「どれ、神様でも拝むとするか」森の中へはいって行った。はたして社が祀ってあった。その拝殿へ腰を掛けた。一つ大きく呼吸《いき》づいた。もう一度大きく呼吸づこうとした。中途で彼は止めてしまった。
「実際現代は息苦しい。重い石が冠さっている。勇気のある者は憤怒《いきどおり》をもって、その重い石を刎ね退けるがいい。勇気のある者は笑ってはいけない! 肉体的にいう時は、笑ったとたんに筋が弛む。精神的にいう時は、笑ったとたんに心が弛む。弛むということは油断ということだ。その油断に付け込んで飛び込んで来るのが、妥協性だ。妥協、うやむや、去勢、萎縮、そこで小粋な姿《なり》をして、天下は泰平でございます。浮世は結構でございます。皆さん愉快にやりましょう。粋《おつ》でげすな。大通でげすな。なあァんて事になってしまう。そうや[#「や」に傍点]って謳《うた》っているうちに、それよこせ[#「よこせ」に傍点]やれよこせ[#「よこせ」に傍点]、洗いざらい持って行かれる。ヘッヘッヘッヘッヘッこれはこれは、いつの間に貧乏になったんだろう? などと驚いても追っ付かない。だから決して笑ってはいけない。いつもうんと[#「うんと」に傍点]怒っているがいい。……だがこいつは勇士の態度だ。利口者には別の道がある。行儀作法を覚えることよ。お辞儀を上手にすることよ。お太鼓をうまく叩くことよ。お手拍子喝采を習うことよ。それで権勢家に取り入るのよ。そうして重用されるのよ。さてそれからジワジワと、自分の考えは権勢家に伝え、その権勢家の力を藉《か》りて、もって実行に現わすのよ」
また感慨に耽り出した。
舁ぎ込まれた一丁の駕籠
と、その時一丁の駕籠が、森の中へ担ぎ込まれた。
「こんな深夜にこんな所へ、担ぎ込まれるとは不思議千万、何か様子があるらしい」弓之助は社の背後《うしろ》へ隠れた。
「おお先棒もうよかろう」「おっと合点、さあ下ろせ」
駕舁きはトンと駕籠を下ろした。それから額の汗を拭いた。それからヒソヒソと囁《ささや》き合った。
「おい姐《ねえ》さん、用があるんだ、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]駕籠から出ておくんなせえ」後棒の方がこういった。
「あい」と可愛らしい声がした。「もう着いたのでございますか」中から垂れが上げられた。「おやここは森の中、駕舁きさん、厭ですねえ。気味が悪いじゃあありませんか。どうぞ冗談なさらずに着ける所へ着けておくんなさい」言葉の調子が町娘らしい。
「まあ姐さん、急《せき》なさんな。着ける所は眼の先だ。がその前にご相談、厭でも諾《き》いて貰わなけりゃあならねえ」こういったのは先棒であった。「おお後棒、もうよかろう。お前からじっくり[#「じっくり」に傍点]いい聞かせてやんねえ」両膝を立ててうずくまり、腰の辺《あた》りを探ったのは、煙管《きせる》でも取り出そうとするのだろう。
先棒は及び腰をして覗き込んだ。
「のう姐さん、もうおおかた、見当は着いているだろう。いかにも俺《おい》らは駕舁きだ。が、問屋場に腰掛けていて、いちいちお客様のお出でを待って、飛び出すような玉じゃあねえ。もうちっとばかり[#「ちっとばかり」に傍点]荒っぽい方だ。俺《おい》らは石地蔵の六といい、仲間は土鼠《もぐら》の源太といって、大した悪事もやらねえが、コソコソ泥棒、掻っ払い、誘拐《かどわか》しぐらいはやろうってものさ、さてそこでお前さんだが、品川から駕籠に乗んなすった時おりから深夜《よふけ》、女身一人、出歩こうとは大胆だが情夫《おとこ》にあいたいの一心から、家を抜け出して来たんだな、こう目星を付けたってものさ。で、先棒がいう事には、何も男の所まで、担いで行くにゃああたるめえ、大の男が二人まで、ここに揃っているのだからな。なるほど縹緻《きりょう》は悪かろう、肌だって荒いに違《ちげ》えねえ。いうまでもなく情夫《おとこ》の方が、やんわり[#「やんわり」に傍点]と当るに違えねえ。だがそいつあ勘弁して貰い、厭でもあろうが俺《おい》ら二人を、亭主に持ってはくれまいか、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]相談ぶって[#「ぶって」に傍点]見ようてな。もっとも厭だといったところでおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と、聞く俺らじゃあねえ。よくねえ奴らに魅入られたと、こう思って器用に往生しねえ」
「おおおお六やどうしたものだ。そう強面《こわもて》に嚇《おど》すものじゃねえ。相手は娘だジワジワとやんな」先棒の源太はかがん[#「かがん」
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