北町奉行|曲淵甲斐守《まがりぶちかいのかみ》、列代町奉行のその中《うち》では、一流の中《うち》へ数えられる人物、弓之助にとっては叔父であった。
 その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。
「叔母様、何か取り込みで?」
「おやこれは弓之助さんかい。何んだか妾《わたし》には解らないが、大変なことが起こったようだよ」
 弓之助には母がなかった。五年ほど前に逝《なくな》ってしまった。で、弓之助はこの叔母を、母のように、懐しんでいた。
「お茶でも淹《い》れよう、遊んでおいで。叔父さんも帰って来ようからね」
「ええ有難うございます」
 お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。
「毎日ご苦労に存じます」
「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。
「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。
「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」
「いったいどんなことでございますな?」
「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。


    変な噂は聞かなかったかな?

 甲斐守は深沈大度、喜怒容易に色に出さぬ、代表的の役人であった。今度に限ってその甲斐守が、まざまざ憂色を面《おもて》に現わし、前古未曽有の大事件で、絶対秘密というからには、よほどの事件に相違ない。弓之助の好奇心は膨れ上がった。しかし甲斐守の性質として、一旦いわぬといったからには、金輪際《こんりんざい》口を開かぬものと、諦めなければならなかった。そこで弓之助は一礼し、甲斐守の部屋を出ようとした。
「これ弓之助ちょっと待て、少し聞きたいことがある」甲斐守は急に止めた。
「はい、ご用でございますか」弓之助は座に直った。
「お前は随分道楽者で、盛り場や悪所を歩き廻るそうだな」
「おやおや何んだ、面白くもない。紋切り形の意見かい」弓之助は苦笑したが、
「これはどうも恐れ入ります。はい、さようでございますな。いくらかは道楽も致しますが、決して親や兄弟へは、迷惑などは掛けないつもりで」
「いやいや意見をするのではない。若いうちは遊ぶもよかろう。親父のようにかたくな[#「かたくな」に傍点]では、ろくな出世は出来ないからな。どうだ情婦《おんな》でも出来ているか」
「おやおやこいつは変梃《へんてこ》だぞ。妙な風向きになったものだ。叔父貴としては珍らしい。ははあわかった、手段だな。いわせて置いてとっちめ[#「とっちめ」に傍点]る。ううんこいつに相違ない。町奉行なんか叔父に持つと、油断も隙も出来やあしない。甥に対してさえお白洲式の、訊問法を採るのだからな。構うものか、逆捻《さかねじ》を食わせろ」そこで弓之助はニヤニヤした。
「実はね、叔父さん、出来ましたので。茶汲み女ではありますが、どうしてどうして一枚絵にさえ出た、素晴らしい別嬪でございますよ。だがね、叔父さん、つい最近、縁を切られてしまいました」
「切られたというのは変ではないか、お前が縁を切ったんだろう。冗《むだ》なことをしたものだ」
「いいえそうじゃありません。女から引導《いんどう》を渡されたんで」
「ほほうそうか、それは偉い」
「偉い女でございますよ」
「いやいや偉いのはお前の方だ」
「叔父さん冷《ひや》かしちゃあいけません」
「冷かすものか、本当のことだ。遊びもそこまで行かなければ、堂に入ったとはいわれない」
「振られて帰る果報者。叔父さん、こいつをいっているんですね」
「いやいやそれとは意味が異う。男へ引導を渡すような女だ、いずれ鉄火に相違あるまい。そういう女をともかくも、占めたということは偉いではないか」
「これはどうも恐れ入りました」弓之助は変に気味悪くなった。「この叔父貴変梃だぜ。金仏のような風采でいてそれで消息には通じている。ははあ昔は遊んだな」
 その時甲斐守は一膝進めた。
「そこでお前に訊くことがある。盛り場ないし悪所などで近ごろ何か変わった噂を耳にしたことはなかったかな?」
「さあ、変わった噂というと?」
「銅銭会というようなことを」
「あっ、それなら聞きました。いや現在見たんです」
「ふうむ、そうか、知っているのか。……ひとつそいつを話してくれ」ピタリと甲斐守は坐り直した。
 そこで弓之助は昨日、上野山下一葉茶屋で、怪しい振る舞いをした町人のことと、老武士のこととを物語
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