善悪両面鼠小僧
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)曲者《くせもの》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)老女|楓《かえで》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どうもこいつア[#「こいつア」に傍点]
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乃信姫に見とれた鼠小僧
「曲者《くせもの》!」という女性《じょしょう》の声。
しばらくあって入り乱れる足音。
「あっちでござる!」
「いやこっちじゃ!」
宿直《とのい》の武士の犇き合う声。
文政《ぶんせい》末年春三月、桜の花の真っ盛り。所は芝二本榎、細川侯の下邸だ。
邸内に大きな松の木がある。その一本の太い枝に一人の小男が隠れていた。豆絞の手拭スットコ冠り、その奥から眼ばかり光らせ高縁の辺りを見詰めている。腕を組み体を縮め足を曲げて胸へ着けた様子、ざっと針鼠と云った塩梅《あんばい》、これが曲者当人である。
「ええどうでえ美人《いいおんな》じゃねえか。どうもこいつア[#「こいつア」に傍点]耐《たま》らねえな。ああやって薙刀をトンと突き縁に立った様子と来たらとても下等の女じゃねえ。正にお大名の姫君様よ。吉原にだってありゃアしねえ。へ、ほんとに耐《たま》らねえや。……が、それにしても今夜の俺らを仲間が聞いたら何と云うだろう? おおおおそれでも鼠小僧かえ、どう致しまして土鼠《もぐら》小僧だアね、なるほどお手許金頂戴でよ、大名屋敷へ忍ぶと云やア、豪勢偉そうに聞こえるけれど、細川様の姫君に見とれ[#「見とれ」に傍点]茫然《ぼんやり》突立っているもんだから、眼覚めた姫君に見咎められ、曲者なんて叫ばれたので何にも取らずに飛び出したあげく、それこそほんに鼠のようにあっち[#「あっち」に傍点]へ追われ、こっち[#「こっち」に傍点]へ追われ逃げ場をなくして松の木へ飛び付き漸《やっと》呼吸《いき》を吐いたなんて、へ、それでも稼人《かせぎにん》けえ? 鼠小僧も箍《たが》が弛んだな。――なアんと云われねえものでもねえ。……が、云う奴は云うがいいや。そんな奴とは交際しねえばかりよ。そういう奴に見せてやりてえくらいだ。お美しくて威があって、お愛嬌があって上品と来てはこれぞ女の最上なるものを。クレオパトラだって適《かな》うめえ。ましてその辺のチョンチョン格子、安女郎ばっかり買っている奴には這般《しゃはん》の
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