肉を刺しました。菱形の窓から熟んだ月が、ショボショボ覗いて居りました。猫目石のような月の眼が、女の胸を探りました。とどうでしょうお月様の眼が、潰れてしまったではございませんか。胸の辺りに刳られた穴が、龕のように出来ていたからです。それを見たからでございます。それで吃驚《びっくり》してお月様の眼が、潰れてしまったのでございます。……誰が刳ったのでございましょう? 青々と光るものがある! 鉛で作った大形の、偃月刀《えんげつとう》でございます。柄に鏤《ちりば》めたは月長石と、雲母石とでございました。それで刳ったのでございます。可哀そうな可哀そうな女の胸を! でもその間その女は、歌をうたって居りました。大変いい声でございました。だが本当に美しいことは、その歌声が熱のために、凍ってしまったことでございます。で虹色の一本の、棒になったのでございます。……阿片をお喫みなさいまし、凍った歌声の虹の棒を、手に取ることが出来ましょう。だが御用心なさりませ、今度は手の熱に冷やされて、棒が融けるでございましょう。それはまだまだよろしいので。ではその時歌声が、こう響いたらどうなさいます。『誰も彼も生きている死骸だよ』……よこせ! よこせ! よこせ! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 寄って集《たか》ってたくさんの人が、虐むからでございます。そこで、生きながら誰も彼も、死骸になるのでございます。……死骸はいやらしゅうございます。見ない方がよろしゅうございます。死骸を見まいと思ったら、阿片をお喫いなさいまし。……お前は誰だい!」
 とその女は、よろめく足を踏み締めると、扇女の前へ突立った。
 支那風に髪を分けており、髪に包まれて顔があり、その顔は仮面と云った方が、似合うように思われた。と云うのは支那製の白粉《おしろい》で、部厚く一面に、塗りくろめ、書き眉をし、口紅をつけ、頬紅を注しているからである。特色的なのは眼であろう。眼窩が深く落ち窪み、暗い深い穴のように見える。
 楔《くさび》形に削ったのだろうか? こう思われる程ゲッソリと、頬が頤へかけて落ちている。
 上着の模様は唐草で、襟と袖とに銀の糸で、細く刺繍《ぬいとり》を施してある。紫色の袴の裾を洩れ、天鵞絨《ビロード》に銀糸で鳥獣を繍った、小さな沓《くつ》も見えている。
「奇麗な御婦人、別嬪さん!」
 云いながら睨むように扇女を見た。それから大学へ眼をやった。
「そうかそうか、恋仲か! 恋をしようとしているのか! だがねえ」とまたもや扇女を見た。
「用心が大事でございますよ。迂闊に恋などなさいますな。凄いお方でございます。この大学という方は! もし迂闊にこの人と恋仲などになりましたら、妾《わたし》のようにされましょう。廃人にね! 廃人にね! ……」
 ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩き出した。針金細工の人形かしら? あまりにも痩せているではないか! そうしてヒョロヒョロと歩く毎に、どうしてあんなにも顫えるのだろう?
 燈籠《とうろう》の火に照らされて、阿片の吹管が反射する。それを握っている手の指が、あたかも鈎のように曲がっている。
 と、だる[#「だる」に傍点]そうに振り返り、ノロノロと片手を上げ、それで大学を指さしたが、
「ね、妾《わたし》の恋男さ! そうさ妾の大学さんさ! 取っちゃア不可《いけ》ないよ、この人をね!」
 それから自分を指さした。
「教えてあげよう、妾の名をね! 『阿片食い』のお妻だよ!」
 またヒョロヒョロと歩き出し、部屋をグルグル廻り出した。

 同じこの夜のことである。
「一体どうしたのでございましょう、こんな夜が更けたのに、兄さんがお帰りにならないとは」
 こういう娘の声がした。清浄であどけない[#「あどけない」に傍点]その中に、憂いを含んだ声である。
 すぐ老人の声がした。
「源三郎にも困ったものだ。悪い友だちが出来たらしい。碌でもない所へ行くらしい」
 ここは浅草の蔵前通りの、富豪加賀屋の奥座敷である。
 源三郎の父の源右衛門と、源三郎の妹のお品とが、源三郎の身の上を案じ、寝もせず噂をしているのであった。
 するとその時足音がして、襖の陰で止まったが、
「大旦那様、大旦那様」
 こう呼ぶ不安そうな声がした。
「長吉どんかい、何か用かい」
「心配のことが出来ました」
「入っておいでな、どんな事だい?」
 襖を開けて顔を出したのは、長吉という手代であった。
「町役人の方がおいでになり、お目にかかりたいと申しております」

 ところが同じこの夜のこと、旅装凜々しい一人の武士が、端艇《はしけ》で海上を親船から、霊岸島まで駛《はし》らせて来た。
「御苦労」と水夫《かこ》へ挨拶をして岸へ上るとその侍は、あたかも人目を忍ぶように、佐賀町河岸までやって来た。
 すると家陰から数人の人影が、タラタラと一勢に現われたが、旅侍を取り巻くや、四方からドッと切り込んだ。
「うむ、出たか! 待っていたようなものだ」
 嘯《うそぶ》くように云ったかと思うと、抜打ちに一人を切り斃し、
「すなわち人殺《ひとごろし》受負業《うけおいぎょう》! アッハッハッハッ、一人切ったぞ」
 その時、
「引け」という声がした。……途端に刺客の人影は、八方に別れて散ってしまった。
「おかしいなあ」と佇んだまま、旅侍は呟いたが、
「はてな?」ともう[#「もう」に傍点]一度呟いた。
 というのは行手、眼の先へ、加賀屋と記された提燈が、幾個《いくつ》か現われたからである。
「宇和島様でございましょうな。加賀屋からのお迎えでございます」
 手代風の一人が進み寄ったが、こう旅侍へ声をかけ、さも丁寧に腰をかがめた。

 ところがこれも同じ晩に、もう一つ奇怪な出来事が起こった。
 一人の立派な老人が、それは加賀屋源右衛門であるが、手燭をかかげて土蔵の中を、神経質に見廻していた。土蔵の中に積まれてあるのは、金鋲を打った千両箱で、それも十や二十ではない。渦高いまでに積まれてある。その一つの前へ来た時である。
「あッ」と老人は声を上げた。
 と、その声が呼んだかのように、土蔵の口へ現われたのは、顔に醜い薄|痘痕《あばた》のある、蔵番らしい男であったが、手に匕首《あいくち》を握っている。じっと狙ったは老人の首で、ジリジリジリジリと擦り寄って行った。


11[#「11」は縦中横]

「親分おいででござんすかえ」
「はいはいおいででございます」
「これは親分お早うございます」
「はいはいお早うございます」
「たんへんな事件《こと》が起こりましたので」
「ははあ左様で、承《うけたま》わりましょう」
「加賀屋の主人が消えましたんで」
「これは事件《こと》でございますな」
「昨夜《ゆうべ》のことでございますよ」
「ははあ左様で、昨夜のことで」
「いまだに行方が知れませんので」
「なるほどこれは大変なことで」
「家内中大騒ぎでございますよ」
「これは騒ぐのが当然で」
「ところがああいう大家のことなので、表立って世間へは知らせられないそうで」
「もっとももっとも……もっとももっとも」
「それ信用にも関しますので」
「左様どころではございません」
「一通り訊いては参りました」
「これはお手柄、承わりましょう」
「ええと昨夜も更けた頃に、町方のお役人がこっそりと、加賀屋へ参ったそうでございますよ」
「ああ町方のお役人様がね」
「で主人と逢いましたそうで」
「ああ左様で、源右衛門さんとね」
「ええそれからヒソヒソ話……」
「ははあお役人と源右衛門さんがね」
「と、どうしたのか源右衛門さんには、にわかに血相を変えまして、奥へ入ったということで」
「なるほどね、なるほどね」
「つまりそれっきり消えましたそうで」
「なるほどね、なるほどね」
「ところがもう一つ不思議なことには……」
「はいはい、不思議が、もう一つね」
「その夜若旦那も帰りませんそうで」
「へーい、なるほど、源三郎さんもね」
「親子行方が知れませんそうで」
「それは、まあまあ[#「まあまあ」に傍点]大変なことで」
 聞いているのは岡引の松吉で、その綽名《あだな》を「丁寧松」といい、告げに来たのは松吉の乾兒《こぶん》の、捨三《すてさぶ》という小男であった。
 所は神田|連雀《れんじゃく》町の丁寧松の住居《すまい》であり、障子に朝日がにぶく[#「にぶく」に傍点]射し、小鳥の影がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]とうつる、そういう早朝のことであった。
 捨三が旨を受けて行ってしまうと、丁寧松は考え込んだ。
 その時お勝手から声がした。
「何だいお前、お菰《こも》の癖に、親分さんに逢いたいなんて」
 ちょっと小首を傾げたが、ツイと立ち上った丁寧松は、きさくにお勝手へ出て行った。
「お梅さんお梅さんどうしたものだ、お菰さんだろうと何だろうと、お出でなすったからにはお客さんだよ。不可《いけ》ない不可ない、粗末にしては不可ない」
 下女のお梅をたしなめ[#「たしなめ」に傍点]たが、ヒョイと丁寧松は眼をやった。乞食が勝手口に立っている。
「これはいらっしゃい。何か御用で?」
「へい」と云ったが入って来た。
「お貰いに参ったんじゃアございません、お為になろうかと存じましてね。ちょっとお聞かせにあがりましたんで」
「ああ左様で、それはそれは。……お梅さんお梅さん向うへ行っておいで。……さあさあ貴郎《あなた》遠慮はいらない。おかけなすって、おかけなすって」
「ここで結構でございますよ、実はね親分」と話し出した。
「人殺しがあったんでございますよ」
「へーい、人殺し? それはそれは」
「そいつをあっし[#「あっし」に傍点]は見ていたんで」
「なるほどね、なるほどね」
「あっし[#「あっし」に傍点]達の住居は軒下なんで。どこへでも寝ることが出来ますので」
「自由でよろしゅうございますなあ」
「昨夜《ゆうべ》寝たのが佐賀町河岸で」
「あああの辺りは景色がいい」
「と、侍が来かかりました」
「ナール、侍がね。……どうしました?」
「と、ムラムラと変な奴が出て、斬ってかかったんでございますよ」
「うむ、うむ、うむ、侍がね」
「と、スポーンと斬ったんで。侍の方が斬ったんで」
「冴えた腕だと見えますねえ」
「引け! というので引いてしまいました。その現われた連中の方が」
「衆寡敵せずの反対で」
「するとどうでしょう、提燈の火だ」
「ほほう提燈? 通行人のね?」
「加賀屋と書いてありましたんで」
「え」と云ったが松吉の眼は、この時ピカリと一閃した。
「加賀屋と書いてありましたかな」


12[#「12」は縦中横]

 なおも乞食は云いつづけた。
「宇和島様でございましょうな、加賀屋からのお迎えでございます。……こう云ったではありませんか」
「ははあ提燈の持主がね?」
「へい左様でございますよ。……それから、侍を囲繞《とりかこ》んで、霊岸島の方へ行きましたので」
「霊岸島の方へ? 不思議ですなあ。加賀屋の本家も控えの寮も、霊岸島などにはなかったはずだが」
「これが好奇《ものずき》というのでしょう、後をつけた[#「つけた」に傍点]のでございますよ、人殺しをした侍が、どこへ落ち着くかと思いましてね」
「偉い」と松吉は手を拍った。
「ねえお菰さん、お菰さんを止めて、私の身内におなりなさいまし」
「これは」と乞食は苦笑したが、
「で、つけた[#「つけた」に傍点]のでございますよ」
「それで、どうでした、どこへ行きました?」
「へい、柏家へ入りました」
「柏家? なるほど、一流の旅籠《はたご》だ」
 こうは云ったが考えた。
「ちょっと不思議な噂のある旅籠だ。……ところで、それからどうしました?」
「話と申せばこれだけなので」
 ニンマリと乞食は笑ったが、
「親分さんは御親切で、どんな者にでもお逢いになり、話を聞いて下さるそうで。……仲間中での評判でしてね。……お為になれば結構と存じ」
「よく解《わか》りました、有難いことで。……これはほん[#「ほん」に傍点]の志で。……オイオイお梅さんお梅さん、このお客さんへお酒をお上げ。ええ
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