に、
「十九年前の春のこと、空っ風の吹く正月《むつき》の朝、すこし心願があったので供も連れず起き抜けに観音様まで参詣すると、大きな公孫樹《いちょう》の樹の蔭で赤児がピーピー泣いている、この寒空に捨て子だな、邪見の親もあるものだと、そぞろ惻隠《そくいん》の心を起こし抱き上げて見れば枕もとに小さい行李が置いてある。開けて見ればわずかの金と書き附けが一本入れてあった。後の証拠と持って来て土蔵の中へ仕舞って置いたが、今日お前の噂が出て、ふと気が付いて家へ帰り、土蔵へはいって見たところ行李と金とはあったけれど肝腎の書き附けが見付からねえ。そのうえ葢《ふた》は取りっ放し積もった塵《ちり》や埃《ほこり》の具合で、これはどうでも一年前に誰か盗んだに違いないとこう目星を付けたものさ。そうして色々考えて見たが、あの行李のあり場所とあの書き附けを知っている者はお前より他には誰もいねえ。元々行李も書き附けも皆《みんな》お前の物なんだから取って悪いというじゃないが、何故欲しいなら欲しいといって俺に明かせてくれなかった。それともそんな書き附けなんか取った覚えがないというならまた別に考えがある」
 先祖譲りの大きい眼をグッと見据えて睨んだ時、ブルッと小次郎は身顫いした。
「はい」といったが俯向いたまま、
「さような大事の書き附けを何んで私が盗みましょう。存ぜぬことでございます」
「なに知らねえ? 本当の口か?」
「存ぜぬことでございます」
「ふうむ、そうか。確かだな!」
「何んの偽《いつわ》り申しましょう」
「が、それにしちゃア去年から、何故お前は変わったんだ!」
「はい、変わったとおっしゃいますと」
「何故時々家を抜ける」
 小次郎はじっ[#「じっ」に傍点]と俯向いている。
「永い時は十日二十日、どこへ行ったか姿も見せねえ。……それに聞きゃあ右の腕へ刺青《ほりもの》をしたっていうことだがお前役者を止める気か! 止める意《つもり》なら文句はねえ。よしまた役者を止めねえにしても俺の家へは置けねえからな! もっともすぐに上覧芝居、こいつに抜けては気が悪かろう。まあ万事はその後だ。……部屋へ帰って考えるがいい」
「おい待ちねえ!」
 と団十郎は、行きかかる小次郎を呼び止めた。
「少しはアタリがついたのかい※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「え?」
 といって振り返るところを、団十郎は押っ冠せ、
「六歌仙よ、揃ったかな?」
「それじゃ親方! お前さんも……」
「王朝時代の大泥棒、明神太郎から今日まで、二百人に及ぶ泥棒の系図、それから不思議な暗号文字《やみことば》――道標《みちしるべ》、畑の中、お日様は西だ。影がうつる。影がうつる。影がうつる。――ええとそれから註釈《ことわりがき》、「信輔筆の六歌仙、六つ揃わば眼を洗え」……実はこいつを見た時には俺もフラフラと迷ったものさ。あの書き附けは賊の持ち物、そいつを付けて捨てられたお前、やはり賊の子に相違ねえと、育てながらも心配したが、これまで別にこれという変わったこともなかったので、やれ有難いと思っていたに、とうとう本性現わして大きいところへ目を付けたな! 俺が止めろと止めたところでおいそれ[#「おいそれ」に傍点]といって止めるようなそんな小さい望みでもねえ。やるつもりならやるもいいが江戸の梨園《りえん》の総管軸この成田屋の身内としてこれまで通り置くことは出来ぬ。上覧芝居を限りとして破門するからその意《つもり》で、とっくり考えておくがいい……そこでもう一度尋ねるが、書き附けを取りはしねえかな?」
「何んとも申し訳ございません。たしかに盗みましてございます」
「そうして六歌仙は揃ったか?」
「はいようやく三本ほど」
「ううむ、そうか、どこで取ったな?」
「そのうち二本は専斎という柳営奥医師の秘蔵の品、女中に化けて住み込んで盗み出してございます」
「二十日ほど家をあけた時か?」
「へえ、さようでございます」
「もう一本はどこで取った?」
「これは藪という旗本の宝、木曽街道の松並木で私の相棒が掠《す》りました」
「相棒の眼星もついているが、それは他人で関係がねえ。……で、四本目はまだなのか?」
「へえ、まだでございます」
「二十五日は上覧芝居、お前も西丸へ連れて行く」
「へえ、有難う存じます」
「お前を西丸へつれて行くんだ」
「へえ、有難う存じます」
「いいか悪いかしらねえが、まあ俺の心づくしさ」
「へえ、有難う存じます」
「部屋へ帰って休むがいい」
 団十郎はこういうと煙管をポンと叩いたものである。


    西丸の大廊下

 旧記によれば上覧芝居は二十八日とも記されているが、しかし本当は二十五日で、この時の西丸の賑やかさは「沙汰の限りに候《そろ》」と林大学頭が書いている。
 朝の六時から始まって夜の十一時に及んだといえば、十七時間ぶっ通しに四つの芝居が演ぜられたわけ、仮りに作られた舞台花道には、百目蝋燭が掛け連らねられ、桜や紅葉の造花から引き幕|緞帳《どんちょう》に至るまで新規に作られたということであるから、費用のほども思いやられる。正面|桟敷《さじき》には大御所様はじめ当の主人の満千姫様《まちひめさま》、三十六人の愛妾達、姫君若様ズラリと並びそこだけには御簾《みす》がかけられている。その左は局《つぼね》の席、その右は西丸詰めの諸士達《しょさむらいたち》の席である。本丸からも見物があり、家族の陪観が許されたのでどこもかしこも人の波、広い見物席は爪を立てるほどの隙もなかった。
 ヒューッとはいる下座の笛、ドンドンと打ち込む太鼓つづみ、嫋々《じょうじょう》と咽ぶ三弦の音《ね》、まず音楽で魅せられる。
 真っ先に開いたは「鏡山《かがみやま》」で、敵役《かたきやく》岩藤の憎態《にくてい》で、尾上《おのえ》の寂しい美しさや、甲斐甲斐しいお初の振る舞いに、あるいは怒りあるいは泣きあるいは両手に汗を握り、二番目も済んで中幕となり、市川流荒事の根元「暫《しばらく》」の幕のあいた頃には、見物の眼はボッと霞み、身も心も上気して、溜息をさえ吐く者があった。
 団十郎の定光が、あの怪奇《グロテスク》な紅隈《べにくま》と同じ怪奇の扮装で、長刀《ながもの》佩いてヌタクリ出で、さて大見得を切った後、
「東夷南蛮|北狄《ほくてき》西戎西夷八荒天地|乾坤《けんこん》のその間にあるべき人の知らざらんや、三千余里も遠からぬ、物に懼《お》じざる荒若衆……」
 と例の連詞《つらね》を述べた時には、ワッと上がる歓呼の声で、来てはならない守殿の者まで自分の持ち場を打ち捨てて見に来るというありさまであったが、この時裏の楽屋から美しい腰元に扮装した若い役者が楽屋を抜け西丸の奥へ忍び込んだのを誰一人として知った者はなかった。

 楽屋を抜け出した小次郎は、夜の西丸の大廊下を、なるだけ人に見付けられぬよう灯陰《ほかげ》灯陰と身を寄せて、素早く奥へ走って行った。
 一村一町にも比較《くら》べられる、無限に広い西丸御殿は、至る所に廊下があり突き当たるつど中庭があり廊下に添って部屋部屋がちょうど町方の家のように整然として並んでいる。
 廊下を左へ曲がったとたん、向こうから来た老武士とバッタリ顔を見合わせた。
「ごめん遊ばせ」
 と声を掛けスルリ擦り抜けて行こうとした。
「あいやしばらく」
 と背後《うしろ》からその老武士が声を掛けた。
「どなたでござるな? どこへおいでになる?」
「はい妾《わたくし》はお霜と申し、秋篠局《あきしののつぼね》の新参のお末、怪しいものではございませぬ」
「新参のお末、おおさようか。道理で顔を知らぬと思った。で、どちらまで参られるな?」
「はい、お局《つぼね》まで参ります」
「秋篠様のお局へな?」
「はい、さようでございます」
「それにしては道が違う」
「おやさようでございましたか。広い広いご殿ではあり、新参者の悲しさにさては道を間違えたかしら」
「おおおお道は大間違い、秋篠様のお局は今来た廊下を引き返し、七つ目の廊下を左へ曲がり、また廊下を右へ廻ると宏大もないお部屋がある。それがお前のご主人のお部屋だ」
「これは有難う存じました。どれそれでは急いで参り……」
「おお急いで参るがよい。……ところで芝居はどの辺だな?」
「ただ今中幕が開いたばかり、団十郎の定光が連詞《つらね》を語っておりまする。早うおいでなさりませ」いい捨てクルリと方向《むき》を変えた。

「様子を見りゃあお留守居役か、いい加減年をしているのに、男か女かこの俺の見分けが付かねえとは甘え奴さ……秋篠というお局が満千姫様のご生母でそこのお部屋に何から何までお輿入れ道具が置いてあるそうな。信輔筆の六歌仙、在原業平《ありわらのなりひら》もそこにある筈だ……五つ六つこれで七つ。よし、この廊下を曲がるんだな」
 七つ目の廊下を左へ曲がり、尚先へ走って行った。と、最初《とっつき》の廊下へ出た。それを今度は右へ曲がるとはたして立派な部屋がある。
「むう、これだな、どれ様子を」
 板戸へピッタリ食い付いて一寸ばかり戸をあけたが朱塗りの蘭燈《らんとう》仄かに点り夢のように美しい部屋の中に一人の若い腰元が半分《なかば》うとうと睡りながら種彦らしい草双紙を片手に持って読んでいた。
「よし」と呟くとスーと開け部屋の中へ入り込んだ。
 ハッと気が付いて振り返ると、
「どなた?」腰元は声を掛けた。
「はい妾《わたし》でございます」
 小次郎はスルスルと近寄ったがパッと飛びかかって首を掴み、持って来た手拭いで猿轡《さるぐつわ》。扱帯《しごき》を解いて腕をくくり傍《そば》の柱へ繋《つな》いだが、奥の襖を手早く開けた。
 グルリと見廻したがツカツカとはいり、
「どうやらここではないらしい」
 奥の襖をまたあけた。
 と、現われたその部屋の遙か奥の正面にあたって何やら大勢|蠢《うごめ》く物がある。
「や、人か?」
 と仰天したが、普通の人間でもないらしい、あるいはキリキリと一本足で立ちあるいは黒髪を振り乱し、または巨大な官女の首が宙でフワフワ浮いている。
「ワッ、これは! 化物《ばけもの》だア!」
 思わず声を筒抜かせたがハッと気が付いて口を蔽い、
「千代田の城に化物部屋。おかしいなア」
 と見直したが、「ブッ、何んだ! 絵じゃねえか!」
 部屋一杯の大きさを持ち黄金《こがね》の額縁で飾られた百鬼夜行の絵であった。
「この絵がここにある上は六歌仙の軸もなくちゃならねえ」
 見廻す鼻先に墨踉あざやかに、六歌仙と箱書きした桐の箱。
「有難え!」
 と小脇に抱え忽ち部屋を飛び出したが、出合い頭に行き合ったのは五十位の老女であった。
「其許《そもじ》は誰じゃ?」
 と呼びかけられ、
「秋篠様のお末霜」
 云いすて向こうへ行こうとする。
「何を申す怪しい女子! かく申すこの妾《わし》こそ秋篠局のお末頭、其許《そもじ》のようなお末は知らぬ」
「南無三!」
 とばかり飛びかかり、顎を下から突き上げた。「ムー」と呻いて仆れるのを板戸をあけてポンと蹴込みそのまま廊下を灯蔭《ほかげ》灯蔭と表の方へ走って行く。……

 ちょうどこの時分紋太郎は彦根の城下を歩いていた。彼はひどくやつれていた。
「俺の旅費もいよいよ尽きた。……しかも未だに駕籠の主も馬の荷物の何んであるかも、突き止めることが出来ないとは。……俺は今に乞食になろう……乞食になろうが非人になろうが、思い立ったこの願い、どうでも一旦は貫かねばならぬ」
 勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通り紋太郎は乞食となり、口へ破れた扇をあて編笠の奥から下手な謡《うたい》を細々うたわなければならなかった。

 こうして道中で年も暮れ、新玉《あらたま》の年は迎えたが、共に祝うべき人もない。
 九州の地へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。
 かくて二月の上旬頃長崎の町へは着いたのである。
 遙かにも我来つるかな……思わず彼は呟《つぶや》いて涙を眼からこぼしたがもっともの
前へ 次へ
全12ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング