ている。
グルリと紋太郎を囲繞《とりま》いたが、
「この夜陰に何用あってここ辺りを彷徨《さまよ》われるな? お見受け致せばお武家のご様子、藩士かないしはご直参か、ご身分ご姓名お宣《なの》りなされい」
言葉の様子が役人らしい。
こいつはどうも悪いことになった。――こう紋太郎は思いながら、
「そういうお手前達は何人でござるな?」
心を落ち着けて訊き返した。
「南町奉行手附きの与力、拙者は松倉金右衛門、ここにいるは同心でござる」
「与力衆に同心衆、ははあさようでござるかな。……拙者は旗本藪紋太郎、実は道に迷いましてな」
「なに旗本の藪紋太郎殿? ははア」
といったがどうしたものかにわかに態度が慇懃《いんぎん》になった。しかしいくらか疑がわしそうに、
「お旗本の藪様とあっては当時世間に名高いお方、それに相違ござりませぬかな?」
「なになに一向有名ではござらぬ」紋太郎は闇の中で苦笑したが、「一向有名ではござらぬがな、藪紋太郎には間違いござらぬよ」
「吹矢のご名手と承わりましたが?」
「さよう、少々|仕《つかまつ》る」
「多摩川におけるご功名は児童走卒も存じおりますところ……」
「なんの、あれとて怪我の功名で」
「ええ誠に失礼ではござるが、貴所様が藪殿に相違ないという何か証拠はござりませぬかな?」
「証拠?」といって紋太郎ははたとばかりに当惑したが、「おお、そうそう吹矢筒がござる」
こういって懐中から取り出したのは常住座臥放したことのない鳥差しの丑《うし》から貰ったところの二尺八寸の吹矢筒であった。
「ははあこれが吹矢筒で? いやこれをご所持の上は何んの疑がいがございましょうぞ」
こういっている時一団の人数が粛々と此方《こなた》へ近寄って来たが、それと見て与力や同心が颯《さっ》っと下がって頭《かしら》を下げたのは高い身分のお方なのであろう。
「変わったことでもあったかの?」
こういいながら一人の武士が群れを離れて近寄って来た。どうやら一団の主人公らしい。
「は」といったのは与力の松倉で、「殿にもご承知でござりましょうが、藪紋太郎殿道に迷われた由にてこの辺を彷徨《さまよ》いおられましたれば……」
「ああこれこれ、その藪殿、どこにおられるな、どこにおられるな?」
そういう声音《こわね》に聞き覚えがあったので、
「ここにおります。……拙者藪紋太郎……」
「おお藪殿か。私は和泉《いずみ》じゃ」
「おおそれでは南お町奉行筒井和泉守様でござりましたか」
「藪殿、道に迷われたそうで」
「道に迷いましてござります」
「よい時道に迷われた。藪殿、よいものが見られますぞ。アハハハ」
と和泉守、何と思ったか笑ったものである。
諸侯の乗り物陸続として来たる
和泉守と紋太郎とは役向きの相違知行の高下から、日頃|交際《まじわり》はしていなかったが、顔は絶えず合わせていた。というのは和泉守が家斉公のお気に入りでちょくちょく西丸へやって来てはご機嫌を窺《うかが》って行くからで、西丸書院番の紋太郎とは厭でも自然顔を合わせる。殊には和泉守は学問好き、それに非常な名奉行で、在職年限二十一年、近藤守重の獄を断じて一時に名声を揚げたこともあり、後年|冤《えん》によってしりぞけられたが忽ち許されて大目附に任じ、さらに川路聖謨《かわじせいばく》と共に長崎に行って魯使《ろし》と会し通商問題で談判をしたり、四角八面に切って廻した幕末における名士だったので、紋太郎の方では常日頃から尊敬してもいたのであった。
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いぎりすもふらんすも皆里言葉たびたび来るは厭でありんす
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和泉守の狂歌であるがこんな洒落気《しゃれけ》もあった人物《ひと》で、そうかと思うと何かの都合で林大学頭が休講した際には代わって経書を講じたというから学問の深さも推察される。
「さあ方々《かたがた》部署におつきなされ」
和泉守は命を下す。
「はっ」と云うと与力同心一斉にバラバラと散ったかと思うと闇に隠れて見えなくなり、後には和泉守と紋太郎と和泉守を守護する者が、四五人残ったばかりである。
「藪氏、此方《こなた》へ」
と云いながら和泉守は歩き出した。
「ここがよろしい」と立ち止まったのはさっき紋太郎が身を忍ばせた門前の大榎の蔭である。
と、その時、空地の彼方《あなた》、遙か西南の方角にあたって一点二点三点の灯が闇を縫ってユラユラ揺れたが次第にこっちへ近寄って来た。
近付くままによく見れば一挺の駕籠を真ん中に囲んだ二十人余りの武士の群れで、写山楼差して進んで行く。やがて門前まで行き着くとひた[#「ひた」に傍点]とばかりに止まったが、二声三声押し問答。ややあって門がギーとあく。駕籠も同勢も一度に動いてすぐと中へ吸い込まれた。
後は森閑と静かで
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