で専斎は膝で進む。
「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。
「はい一通りは持って参ってござる」
「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが渦高《うずたか》く夜具《よるのもの》が敷いてある。そうして誰か寝ているらしい。しかし白布で蔽われているので姿を見ることは出来なかった。
「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さも嗄《しわが》れた声音《こわね》である。
「へ――い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっ[#「ぞっ」に傍点]と身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。
「あっ」と専斎は呼吸《いき》を呑んだが老人は見返りもしなかった。白い掛け布を一所《ひとところ》スーと小刀で切ったものである。
「お手当てを」と引き声でいった。で、専斎は覗いて見た。裂かれた布の間から桃色の肉が見えていたが肉はピクピク動いている。神経の通っている証拠である。産毛《うぶげ》が一面に生えていたが色はあざやか[#「あざやか」に傍点]な黄金色《こがねいろ》であった。人間の肌には相違ない。が、しかし、その人間が……肉の一所が脹れ上がり見るも恐ろしい紫色に変色してるばかりでなくその真ん中と思われる辺に一つの小さい突き傷があり突き傷は随分深そうであった。細い鋭利な金属性の物で深く刺されたものらしい。
この時までの専斎は見るも気の毒な臆病者であったが、怪我人の傷を一眼見るや俄然態度が緊張《ひきし》まった。つまり医師としての自尊心が勃然湧き起こったからであろう。彼は片手をズイと差し込みそろそろと肌にさわって見た。
「……第一|肋《あばら》。……第二肋。……うむ別に異状なし。……肺の臓? ええと待てよ…… ふむ、なるほど。ちとあぶなかったな。……しかし、まずまず危険には遠い。……あっ、しまった! 肺尖《はいせん》が! ……」
心の中で呟きながら専斎はズンズン診て行った。
「……一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。……」
「専斎殿、お診断《みたて》は?」
覆面の老人が囁くように訊いた。
「大事はござらぬ。幸いにな……」
「さようでござるかな。それで安心。……」老人はホ――ッと溜息をしたが、その様子でその老人がどんなに心配をしていたかが十分想像出来そうである。
ここにもある六歌仙
専斎は懐中から紙入れを出した。キラキラ光る銀色のナイフ、同じく鋸《のこぎり》、同じく槌、それから幾本かのピンセット。――外科の道具を抜き出したが、まず一本のナイフを握ると一膝膝をいざり[#「いざり」に傍点]出た。……患部へ宛ててスッと引く。タラタラと流れ出る真っ赤の血を用意の布《きれ》で拭《ぬぐ》い眼にも止まらぬ早業で手術の手筈を付けて行く。
もうこの時には彼の心には、陰森と寂しい部屋の態《さま》も、痩せた覆面の老人の姿も、確かに人間ではあるけれど人間ならぬ不思議な肌の小気味の悪い患者のことも、ほとんど存在していなかった。彼の心にあるものは、危険性を持った奇怪な傷をどうしたらうまく癒せるかという医師的責任感ばかりであった。
こうして間もなく消毒も終え、クルクルと繃帯を巻き了《お》えると、
「これでよろしい」と静かにいった。「熟《う》みさえせねば大丈夫でござる」
「熟《う》みさえせねば?」と不安そうに、「いかがでござろう熟みましょうかな?」声は不安に充ちている。
「いや、九分九厘……大丈夫でござる」
「それはそれは有難いことで」
いうと一緒に手を延ばしスーと金屏風を引き廻した。
「しばらく……」というと立ち上がり広い座敷を横切って行く。部屋の外れの襖を開けるとふっとその中へ消え込んだ。
一人になると専斎はまたゾクゾク恐ろしくなったが、度胸を定めて四辺《あたり》の様子を盗み眼《まなこ》で見廻した。部屋の広さは百畳敷もあろうか古色蒼然といいたいが事実はそれと反対で、ほんの最近に造ったものらしく木の香のするほど真新しい。横手にこじんまり[#「こじんまり」に傍点]とした床の間があった。二幅の軸が掛かっている。
「はてな?」と呟いて専斎はその軸へじっと眼を注いだ。「や、これは六歌仙だ!」
それはいかにも六歌仙のうち、僧正遍昭と文屋とであった。
「同じ絵師の筆だわえ」
また専斎は呟いた。
それもいかにもその通り、そこに掛けてある二歌仙は、かつて専斎が持っていて小間使いのお菊に奪われた小野小町の一幅と、もう一つ現在持っている大友黒主の一幅と全く同じ作者によって描かれたものだとい
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