右衛門が嬉しそうに従《つ》いて来た。
「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。
「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。
「それはまあ何より有難いことで。で何程《いかほど》に売れましたかな?」
「何も俺は売りはせぬ」
「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の総括《たばね》嘉右衛門へ値をよく売るのだとおっしゃって、ご秘蔵の喜撰様を箱ながらお持ちになったではござりませぬか」三右衛門は顔を顰《しか》めながらさも不安そうに云うのであった。
「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」
「え、ご紛失なされましたとな?」
「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業《はやわざ》でな。あれには俺も感心したよ」
紋太郎は一向平気である。
余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。
「何んだ三右衛その顔は!」
紋太郎は快活に笑い出した。
「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」
二尺八寸の吹矢筒
「何がめでとうござりましょうぞ」
三右衛門は涙の眼を抑え、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解《いいわけ》したものか。ああああこれは困ったことになった。それだのにマアマア旦那様は首尾はよいの上々吉だのと。これが何んのめでたかろう」
「まあ見ろ三右衛この筒を」
こういいながら紋太郎はさもさも嬉しいというように手に持っていた吹矢筒をひょい[#「ひょい」に傍点]と眼の前へ持ち上げたが、
「お前も知っている鳥差しの丑《うし》、俺が吹矢を好きだと知ってか、わざわざ持って来てくれて行った。知行所の百姓は感心じゃ。俺を皆《みんな》可愛がってくれる。……これは素晴らしい吹矢筒だ。第一大分古い物だ。木肌に脂《あぶら》が沁み込んで鼈甲《べっこう》のように光っている。俺は来る道々|験《ため》して見たが、百発百中はずれ[#「はずれ」に傍点]た事がない。嘘だと思うなら見るがよい」
側に置いてある小箱をあけると手製の吹矢を摘み出した。ポンと筒の中へ辷り込ませる。それからそっと障子をあけた。
庭の老松《おいまつ》に一羽の烏が伴鳥《ともどり》もなく止まっていたが、真っ黒の姿を陽に輝かせキョロキョロ四辺を見廻している。
紋太郎はろくに狙いもせず筒口へ唇を宛《あて》たかと思うと、ヒュ――ッと風を切る音がして一筋の白光空を貫きそれと同時に樹上の鳥はコロリと地面へ転げ落ちた。
いつもながらの精妙の手練に、三右衛門は感に耐えながらも、今は褒めている場合でない。重い溜息を吐くばかりであった。
「二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、外見《みば》は上品、有難い獲物を手に入れたぞ」
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解《いいわけ》したものであろう」
「三右衛、何が不足なのじゃ?」
「何も不足はござりませぬが。……金のないのが心配でござります」
「金か、金ならここにある」
紋太郎は懐中へ手を入れるとスルリと胴巻を抜き出した。
「小判で二百両、これでも不足かな」
三右衛門の前へドンと投げる。
「あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ」
「へえ、それにしてもこんな大金を……」
三右衛門は容易に手を出さない。
紋太郎は哄然と笑ったが、
「貧乏神のいったこともまんざら嘘ではなかったわい。……何の、三右衛、こういう訳だ。実は喜撰を掠《す》られたので俺もひどく悄気《しょげ》たものさ。といってノメノメ帰られもしないで、知行所へ行って見るとどうした風の吹き廻しか、いつもは渋る嘉右衛門が二つ返辞で承知をしてくれ、いい出した倍の二百両というもの融通をしてくれたではないか。その上でのいい草がいい。――今年はご出世なさいますよとな。……で、俺が何故と訊いて見ると、何故だかそれは解りませぬと、こういって澄ましているではないか。……三右衛安心をするがいいぞ。どうやら貧乏の俺の家もこれから運に向かうらしい。貧乏神めもそういったからの」
こうして春去り夏が来た。その夏も逝《い》って秋となった。
小鳥狩りの季節となったのである。
ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の生活《くらし》振りは案外|暢気《のんき》というものであった。
「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」
時々紋太郎がこんなこと
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