カツカとはいり、
「どうやらここではないらしい」
 奥の襖をまたあけた。
 と、現われたその部屋の遙か奥の正面にあたって何やら大勢|蠢《うごめ》く物がある。
「や、人か?」
 と仰天したが、普通の人間でもないらしい、あるいはキリキリと一本足で立ちあるいは黒髪を振り乱し、または巨大な官女の首が宙でフワフワ浮いている。
「ワッ、これは! 化物《ばけもの》だア!」
 思わず声を筒抜かせたがハッと気が付いて口を蔽い、
「千代田の城に化物部屋。おかしいなア」
 と見直したが、「ブッ、何んだ! 絵じゃねえか!」
 部屋一杯の大きさを持ち黄金《こがね》の額縁で飾られた百鬼夜行の絵であった。
「この絵がここにある上は六歌仙の軸もなくちゃならねえ」
 見廻す鼻先に墨踉あざやかに、六歌仙と箱書きした桐の箱。
「有難え!」
 と小脇に抱え忽ち部屋を飛び出したが、出合い頭に行き合ったのは五十位の老女であった。
「其許《そもじ》は誰じゃ?」
 と呼びかけられ、
「秋篠様のお末霜」
 云いすて向こうへ行こうとする。
「何を申す怪しい女子! かく申すこの妾《わし》こそ秋篠局のお末頭、其許《そもじ》のようなお末は知らぬ」
「南無三!」
 とばかり飛びかかり、顎を下から突き上げた。「ムー」と呻いて仆れるのを板戸をあけてポンと蹴込みそのまま廊下を灯蔭《ほかげ》灯蔭と表の方へ走って行く。……

 ちょうどこの時分紋太郎は彦根の城下を歩いていた。彼はひどくやつれていた。
「俺の旅費もいよいよ尽きた。……しかも未だに駕籠の主も馬の荷物の何んであるかも、突き止めることが出来ないとは。……俺は今に乞食になろう……乞食になろうが非人になろうが、思い立ったこの願い、どうでも一旦は貫かねばならぬ」
 勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通り紋太郎は乞食となり、口へ破れた扇をあて編笠の奥から下手な謡《うたい》を細々うたわなければならなかった。

 こうして道中で年も暮れ、新玉《あらたま》の年は迎えたが、共に祝うべき人もない。
 九州の地へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。
 かくて二月の上旬頃長崎の町へは着いたのである。
 遙かにも我来つるかな……思わず彼は呟《つぶや》いて涙を眼からこぼしたがもっともの
前へ 次へ
全56ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング