ば、十七時間ぶっ通しに四つの芝居が演ぜられたわけ、仮りに作られた舞台花道には、百目蝋燭が掛け連らねられ、桜や紅葉の造花から引き幕|緞帳《どんちょう》に至るまで新規に作られたということであるから、費用のほども思いやられる。正面|桟敷《さじき》には大御所様はじめ当の主人の満千姫様《まちひめさま》、三十六人の愛妾達、姫君若様ズラリと並びそこだけには御簾《みす》がかけられている。その左は局《つぼね》の席、その右は西丸詰めの諸士達《しょさむらいたち》の席である。本丸からも見物があり、家族の陪観が許されたのでどこもかしこも人の波、広い見物席は爪を立てるほどの隙もなかった。
 ヒューッとはいる下座の笛、ドンドンと打ち込む太鼓つづみ、嫋々《じょうじょう》と咽ぶ三弦の音《ね》、まず音楽で魅せられる。
 真っ先に開いたは「鏡山《かがみやま》」で、敵役《かたきやく》岩藤の憎態《にくてい》で、尾上《おのえ》の寂しい美しさや、甲斐甲斐しいお初の振る舞いに、あるいは怒りあるいは泣きあるいは両手に汗を握り、二番目も済んで中幕となり、市川流荒事の根元「暫《しばらく》」の幕のあいた頃には、見物の眼はボッと霞み、身も心も上気して、溜息をさえ吐く者があった。
 団十郎の定光が、あの怪奇《グロテスク》な紅隈《べにくま》と同じ怪奇の扮装で、長刀《ながもの》佩いてヌタクリ出で、さて大見得を切った後、
「東夷南蛮|北狄《ほくてき》西戎西夷八荒天地|乾坤《けんこん》のその間にあるべき人の知らざらんや、三千余里も遠からぬ、物に懼《お》じざる荒若衆……」
 と例の連詞《つらね》を述べた時には、ワッと上がる歓呼の声で、来てはならない守殿の者まで自分の持ち場を打ち捨てて見に来るというありさまであったが、この時裏の楽屋から美しい腰元に扮装した若い役者が楽屋を抜け西丸の奥へ忍び込んだのを誰一人として知った者はなかった。

 楽屋を抜け出した小次郎は、夜の西丸の大廊下を、なるだけ人に見付けられぬよう灯陰《ほかげ》灯陰と身を寄せて、素早く奥へ走って行った。
 一村一町にも比較《くら》べられる、無限に広い西丸御殿は、至る所に廊下があり突き当たるつど中庭があり廊下に添って部屋部屋がちょうど町方の家のように整然として並んでいる。
 廊下を左へ曲がったとたん、向こうから来た老武士とバッタリ顔を見合わせた。
「ごめん遊ばせ」
 と声を掛け
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