通りなどは一人もなく写山楼でも寝てしまったか燈火《ともしび》一筋洩れても来ない。
厳《いか》めしい表門の前まで来て紋太郎は立ち止まった。
「まさかここからは忍び込めまい。……それでもちょっと押して見るかな」
で、紋太郎は手を延ばし傍《そば》の潜門《くぐり》を押して見た。
「どなたでござるな?」と門内からすぐに答える声がした。「土居様お先供ではござりませぬかな? しばらくお待ちくだされますよう」
しばらくあって門が開いた。
もうその頃には紋太郎は少し離れた榎《えのき》の蔭に身を小さくして隠れていたが、
「土井様と云えば譜代も譜代|下総《しもうさ》古河で八万石|大炊頭《おおいのかみ》様に相違あるまいが、さては今夜写山楼へおいでなさるお約束でもあると見える。……それにしてもさすがに谷文晁《たにぶんちょう》、たいしたお方を客になさる」
驚いて様子を見ていると、門番の声が聞こえて来た。
「何んだ何んだ誰もいねえじゃねえか。こいつどうも驚いたぞ。ははアさては太田ノ原の孕《はら》み狐めの悪戯《いたずら》だな」
「どうしたどうした、え、狐だって?」相棒の声が聞こえて来る。「気味が悪いなあ、締めろ締めろ!」
ギ――と再び門の締まる陰気な音が響いたが森然《しん》とその後は静かになった。
で、紋太郎はそろそろと隠れ場所から現われたが、足音を盗み塀に添い裏門の方へ歩いて行った。
裏門も厳重に締まっている。乗ずべき隙などどこにもない。
待て! と突然呼ぶ者がある
それでも念のため近寄って邸内の様子を覗こうとした。
「どなたでござるな?」
と門内から、すぐに咎める声がした。「ここは裏門でござります。塀に付いてグルリとお廻りくだされ、すぐに表門でござります。……ははア柳生様のお先供で、ご苦労様に存じます」
「おやおやそれでは柳生侯も今夜はここへおいでと見える。大和正木坂で一万石、剣道だけで諸侯となられた但馬守様《たじまのかみさま》は剣《つるぎ》の神様、えらいお方がおいでになるぞ」
紋太郎いささか胆を潰し表門の方へ引っ返した。
「待て!」
と突然呼ぶ声がした。闇の中からキラリと一筋光の棒が走り出たが紋太郎の体を照らしたものである。その光が一瞬で消えると黒い闇をさらに黒めて一人の武士が現われた。宗十郎頭巾に龕燈提灯《がんどうちょうちん》、供の者が三人|従《つ》い
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