なさる気で?」
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ[#「ヘボ」に傍点]医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」


    隣家の誼みも今日限り

「みんなこの私のさせる業《わざ》じゃ」
「ははア、さようでござりましたかな」
「どうも彼奴は乱暴で困る」
「さして乱暴とも見えませぬが……」
「私を泥棒じゃと吐《ぬか》しおる」
「なるほど、それは不届き千万」
「今私は追われている」
「それはお困りでござりましょうな」
「で、どうぞ隠《かくま》ってくだされ」
「いと易いこと。どうぞこちらへ」
 ――で、紋太郎は先に立ち自分の部屋へはいって行った。
 おりから玄関に訪《おと》なう声。
「藪殿藪殿! 御意《ぎょい》得たい! 専斎でござる。隣家の専斎で」
「これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?」
 悠々と紋太郎は玄関へ出た。
「賊でござる! 賊がはいってござる!」
 医師専斎は血相を変え、弟子や家の者を背後《うしろ》に従え玄関先で怒鳴るのであった。
「拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら」
「そうではござらぬ! そうではござらぬ!」
 専斎はいよいよ狼狽し、
「賊のはいったは愚老の邸。盗んだものは六歌仙の軸……」
「アッハハハ」とそれを聞くと紋太郎はにわかに哄笑した。「専斎殿、年甲斐もない、何をキョトキョト周章《あわ》てなさる。貴殿の邸へはいった賊をここへ探しに参られたとて、何んで賊が出ましょうぞ」
「いや」と専斉は歯痒そうに、「賊はこちらへ逃げ込んだのでござるよ!」
「ほほう、どこから逃げ込みましたかな?」
「黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました」
「それは何かの間違いでござろう。……拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など藉《か》りにも見掛けは致しませぬ」
「そんな筈はない!」
 と威猛高に、専斎は怒声を高めたが、
「お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!」
「黙らっせえ!」
 と紋太郎、いつもの柔和に引き換えて一句烈しく喝破した。「たとえ隣家の誼《よし》みはあろうとそれはそれこれはこれ、かりにも武士の邸内を家探ししようとは出過ぎた振る舞
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