大鵬のゆくえ
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)気障《きざ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)杉田|忠恕《ちゅうじょ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》
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    吉備彦来訪

 読者諸君よ、しばらくの間、過去の事件について語らしめよ。……などと気障《きざ》な前置きをするのも実は必要があるからである。
 一人の貧弱《みすぼらし》い老人が信輔《のぶすけ》の邸を訪ずれた。
 平安朝時代のことである。
 当時藤原信輔といえば土佐の名手として世に名高く殊には堂々たるお公卿様。容易なことでは逢うことさえ出来ない。
「そんな貧弱《みすぼらし》い風態でお目にかかりたいとは何んの痴事《たわごと》! 莫迦を云わずと帰れ帰れ」
 取り次ぎの者は剣もホロロだ。
「はいはいごもっともではござりますが、まあまあさようおっしゃらずにお取り次ぎお願い申します。……宇治の牛丸が参ったとこうおっしゃってくださいますよう」
 爺《おやじ》はなかなか帰りそうにもしない。
 で、取り次ぎは内へはいった。
 おりから信輔は画室に籠もって源平絵巻に筆をつけていたが、
「何、宇治の牛丸とな? それはそれは珍しい。叮嚀に奥へお通し申せ」
「へへえ、さようでございますかな。……あのお逢い遊ばすので?」取り次ぎの者は不審そうに訊く。
「おお、お目にかかるとも」
「そこでお伺い申しますが、宇治の牛丸と申す爺《おやじ》、本性は何者でござりましょうや?」
「妖怪変化ではあるまいし、本性などとは無礼であろうぞ。宇治の牛丸と申すのは馬飼吉備彦《うまかいきびひこ》の変名じゃわい」
「うへえ!」
 と取り次ぎの山吹丸はそれを聞くと大仰に眼を丸くしたが、
「馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが……」
「その長者の吉備彦じゃわい」
「それに致してはその風態《みなり》があまりに粗末にござります」
「ほほう、どのような風態かな?」
「木綿のゴツゴツの布子を着……」
「恐らくそれは結城紬《ゆうきつむぎ》であろう」
 まさか藤原氏の全盛時代には結城紬などはなかった筈。
 それはとにかく吉備
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