っていた。
ヒューヒューと鳴る口笛の音も春の夜にはふさわし[#「ふさわし」に傍点]かった。
しかしその時、居間の方で、変にカキカキいう音がした。
「おや」とお花は聞耳を立てたが、手に葱《ねぶか》を持ったまま、急いでそっちへ行ってみた。
一匹の奇形な動物が、背を蜒《うね》らして走り廻っていた。犬のように大きな鼬であったが、口に手箱を銜えていた。
「あっ」とお花は悲鳴をあげ、無宙で葱を投げつけた。
鼬の何よりも嫌いなのは、刺戟性の葱の匂であった。それで、鼬は一跳ね跳ねると、食わえていた手箱を振り落し、庭の茂へ走り込んだ。
「ああ恐かった」と溜息をしながら、お花はしばらく立ち縮んだものの、気が付いて手箱を取り上げた。
彼女は利口な女であった。鼬が手箱を狙ったのは偶然ではあるまいと推量した。そこで、手箱を持ったまま女中部屋の方へ入って行った。ふたたび彼女が現われた時には、風呂敷に包んだ小さな箱を、大事そうに両手で捧げていた。そうして主人の居間へ行くと、袋戸棚をそっと開け大切そうに藏《しま》い込んだ。
お花の聡明な心遣いが、無駄でなかったということは、その夜が更けてから証明された。
庭の茂が幽《かすか》に揺れると、香具師《やし》風の若者が手拭でスッポリ顔を隠し、刻み足をして現われたが、ぴったりと雨戸へ身を寄せた。
こういうことには慣れていると見え、二三度小手を動かしたかと思うと音もなく雨戸がスルスルとあき、横縁が眼前に現われた。その向こうに障子が見え、それを開けると義哉の居間で、主人がいないにも拘らず燈火《あかり》がポッと射していた。
香具師風の若者は、膝で歩いて障子へ寄り、内の様子をうかがったが、誰もいないと確かめると躊躇せず障子を引きあけた。それからスックリ立ち上ると袋戸棚の前へ行き、手早く箱を取り出した。
その時人の気勢《けはい》がした。
あわてた彼は盗んだ箱を手早く懐中へ捻じ込んだが、もう足音を忍ぼうともせず、縁から庭へ飛び下りた。
ざわざわと茂みの揺れる音、つづいて口笛の音がしたが、後は寂然としずかになった。引き違いに居間へ現われたのは、例の小間使いのお花であって、先ず静かに雨戸をとじ、それからしとやか[#「しとやか」に傍点]に障子をしめた。
見れば手箱を持っている。
乙女に有り勝ちの好奇心が、彼女の心に湧いたのであろう、燈火《ともしび》の前へ坐りこむと、先ず髪から簪を抜き、その足を鍵穴へ差し込んだ。しかし錠前は外れなかった。
で、手箱を膝の上へのせ、しばらくじっと[#「じっと」に傍点]考え込んだ。
見る見る彼女の眼の中へ燃えるような光が射して来た。
彼女は突然叫び出した。「泥棒《どろぼう》でございます泥棒でございます!」
そうして手早く杉の手箱を自分のふところ[#「ふところ」に傍点]へ捻じ込んだ。
けたたましい声に仰天して、家の人達が集まって来たのは、その次の瞬間のことであったが、いかさま縁にも座敷にも泥足の跡が付いているので、賊の入ったことは証拠立てられた。
そこで八方へ人が飛んだ。しかし賊は見付からなかった。
そうして何を盗まれたものか、かいくれ[#「かいくれ」に傍点]見当がつかなかった。
と云うのは金にも器類にも、紛失したものがないからであった。
19[#「19」は縦中横]
ちょうど同じ夜の出来事である。
岡山頭巾で顔を包んだ、小兵の武士が供もつれず、江戸の街を歩いていた。
すると、その後を従《つ》けるようにして、十人ばかりの屈強の武士が、足音を盗んで近寄って来た。
覆面の武士は幕府の重鎮|勝安房守安芳《かつあわのかみやすよし》で、十人の武士は刺客なのであった。
今日の東京の地図から云えば、日本橋区|本石町《ほんごくちょう》を西の方へ向かって歩いていた。室町を経て日本橋へ出、京橋を通って銀座へ出、尾張町の辻を真直ぐに進み、芝口の辻までやって来た。
この間二三度刺客達は、討ち果そうとして走りかかったが、安房守の威厳に搏《う》たれたものか、いつも途中で引き返してしまった。
だが一体何のために勝安房守を殺そうとするのだろう? そうして一体刺客達は、どういう身分の者なのだろう。
それを知りたいと思うなら、当時の歴史を調べなければならない。
慶応《けいおう》三年九月であったが、土佐《とさ》の山内容堂《やまのうちようどう》侯は、薩長二藩が連合し討幕の計略をしたと聞き、これは一大事と胸を痛めた。そこで一通の建白書を作り、後藤象二郎《ごとうしょうじろう》、福岡孝悌《ふくおかこうてい》、この二人の家臣をして将軍慶喜に奉《たてまつ》らしめ、平和に大政を奉還せしめ、令政をして一途に出でしめ、世界の大勢に順応せしめ、日本の国威を揚げしめようとした。そこで慶喜は十月十三日、京都二
前へ
次へ
全28ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング