「失礼ながら、ご令嬢かな?」
「ハイ、娘でございます」
「さようでござるか、それはそれは」
 こうは云ったが愈々益々《いよいよますます》、疑わざるを得なかった。
「それほどの大家の令嬢が、こんな深夜に江戸の町を、あんな片輪者を一人だけ連れて、浅草あたりのあんな家を、どうして訪ねたものだろう? いやいやこれは食わせ物だ。色を売る女であろうもしれぬ」
 しかし間もなくその疑いが杞憂であったことが証拠立てられた。
「あの、ここが妾《わたくし》の家で」
 こう云いながら指差した家が、紛れもなく伊丹屋であったからである。
「あの……」とお錦は云い難そうにしばらくもじもじ[#「もじもじ」に傍点]していたが「いずれ明日改めて、お礼にお伺い致しますがどうぞその時までこの手箱をお預かり下さることなりますまいか」
 こう云いながら差し出したのは「爺つあん」から貰った手箱であった。
「ははあ」と義哉は胸の中で云った。「さては恋文でも入れてあるのだな。あの浅草の古びた家は媾曳《あいびき》の宿であったのかもしれない。大胆な娘の様子から云っても、これは確かにありそうなことだ。とんだ所へ飛び込んだものだ」
 苦笑せざるを得なかった。
 彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
 こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
 こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸《くぐりど》があき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。

12[#「12」は縦中横]

「爺つあん」はすっかり疲労《つかれ》てしまった。
 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。
 で、布団を胸へかけ、静かに睡《ねむり》へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆《やといばあ》さんが顔を出した。
「もし、親方、お客様ですよ」
「誰だか知らねえが断っておくれ」
「どうしても逢いたいって仰有《おっしゃ》るので」
「ところが俺は逢いたくねえのだ」
「困りましたね、どうしましょう」
 婆さんはいかにも困ったらしかった。
「どんな人だね、逢いたいって人は?」
 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、
「「爺つあん」俺だよ」という声がした。
 開けられた襖のむこう[#「むこう」に傍点]側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。
「おっ、お前は文じゃねえか!」
「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。
「うん、そうだよ、「釜無《かまな》しの文《ぶん》」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっち[#「あっち」に傍点]へ行っていな、俺《おい》ら「爺つあん」に用があるんだからな」
 雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。
「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」
「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」
「おいら[#「おいら」に傍点]夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村《はむら》一座の仕打《しうち》として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」
「目付けてくれずともよかったに」
「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」
「ところで、どうして目付けたな?」
「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」
「ああ成程、トン公をな」
「彼奴《きゃつ》は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」
「そういうことだな、トン公から聞いた」
「ところが今じゃお前の座にいる」
「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」
「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺《おい》ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ[#「そいつあ」に傍点]問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」
「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。
「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換《かえっこ》しようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。
「交換だって? え、何の?」
「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱
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