な。覚えていろよ、いい事アねえぞ」
「覚えているとも」とトン公は笑い、「悪いことは云わねえ帰った方がいい。そうだ足下の明るいうちにね」
云い捲くられた釜無しの文は、縹緻《きりょう》を下げて帰ることになった。
足音が門口から消えた時、「爺つあん」は深い溜息をした。
「……すんでに瞞される所だった。トン公、ほんとに有難うよ」
「ナーニ」と云ったがトン公は、頭の繃帯を手でさぐり、「どうもいけねえ、まだ痛えや。……だがね「爺つあん」実の所はね、紫錦さんは浮雲《あぶね》えんだよ」
「え、どうしてだい? どうして浮雲えな?」
「源公の野郎ヤケになって、江戸中探しているらしいんだ。それで今夜もぶつかったって訳さ。この頭の傷だって、つまり何だ、その時の土産《みやげ》さ。……あれいけねえ、まだ痛えや!」怨めしそうな顔をした。
14[#「14」は縦中横]
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※[#歌記号、1−3−28]よし足引の山めぐり、四季のながめも面白や、梅が笑えば柳が招く、風のまにまに早蕨《さわらび》の、手を引きそうて弥生《やよい》山……
[#ここで字下げ終わり]
その翌日の午後であったが、小堀義哉《こぼりよしや》は裏座敷で、清元《きよもと》の『山姥《やまうば》』をさら[#「さら」に傍点]っていた。
と、襖がつつましく[#「つつましく」に傍点]開いて、小間使いのお花が顔を出した。
「あの、お客様でございます」
「お客様? どなただな?」
「伊丹屋《いたみや》の娘だと仰有《おっしゃ》いまして、眼の醒《さめ》るようなお美しい方が、駕籠でお見えでございます」
「ああそうか、通すがよい」
間もなく部屋へ現われたのは、盛装をしたお錦であった。
「お錦殿か、よく見えられたな」義哉は愛想よく声を掛けた。
「昨夜はお助け下されまして、お蔭をもちまして危難を遁がれ、何とお礼を申してよいやら」
お錦は手をついて辞儀をしたが、「お礼にあがりましてござります」
其処へ小間使いが現われて、頂戴物の披露をした。
「それはそれはご丁寧に。そんな心配には及ばなかったものを」義哉はかえって気の毒そうにした。
一人は美男の若侍、一人は妖艶な町娘、それに男は武士とは云っても、清元の名手で寧ろ芸人そうして女は其昔は女軽業の太夫である。それが春の日の閑静な部屋に、二人だけで向かい合っているのであった。
二人はし
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