物」――
 彼女は繁雑に耐えられなくなった。
 それに一緒に住んで見れば、柔弱の伊太郎も鼻に付いた。
「万事万端|拵《こしら》え物のようで、活気というものがありゃアしない」彼女はこんなように思うのであった。
「お金持とか上流とか、そういった人達の生活《くらし》方が、みんながみんなこうだとすれば、ちっともうらやましいものではない」
 とはいえ以前の生活へ帰って行きたいとは思わなかった。それは「泥棒の生活」であり又「動物の生活」だからであった。
「何か妾にぴったりと合った有意味の暮らし方はないものかしら」
 彼女はそれを目付けるようになった。
 伊丹屋の主人伊右衛門が或日女房にこう云った「お錦《きん》、近来《ちかごろ》変わってきたね。なんだかおちつかなくなったじゃないか」
「そう云えば本当にそうですね」女房のお琴《こと》も眉を顰《しか》め「いったいどうしたって云うんでしょう」
「それにお錦は左の腕を、いつも繃帯しているが、どうも私は気になってならない」
「ほんとにあれ[#「あれ」に傍点]は変ですね」
「お前からそれとなく訊いて見るがいい」
 ――それで、或日それとなくお琴はお錦へ訊《たず》ねて見た。
「お前傷でもしたんじゃないの?」
「いいえ、そうじゃございません」お錦はそっと着物の上から左の二の腕を抑えたが、
「痣があるのでございますの」
「まあ、そうかえ、痣がねえ」
 お琴は意外な顔をした。



 紫錦《しきん》は伊丹屋へ来て以来、その名をお錦《きん》と呼び変えられていた。そのお錦の最近の希望《のぞみ》は、女中も連れず、ただ一人で浅草辺りを歩いて見たいことで、もしそれが旨く行こうものならどんなにのうのう[#「のうのう」に傍点]するだろう――こう彼女は思うのであった。
 で或日外出した時、うまうま途中で女中をまいた[#「まいた」に傍点]。喜んだお錦はその足で浅草の方へ歩いて行った。浅草奥山の賑《にぎわい》は今も昔も変りがなく、見世物小屋からは景気のよい囃子の音が聞こえてきた。恐ろしいような人出であった。
 観音様へお賽銭を上げ、それからお堂の裏手の方へ宛もなく彼女は歩いて行った。
「オイ紫錦《しきん》さん、紫錦さんじゃないか!」
 誰やら背後《うしろ》から呼ぶ者があるので彼女は驚いて振り返った。
「おや、お前、トン公《こう》じゃないか?」
「ナーンだ、やっぱり紫錦
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