「うむ」と呻いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!
蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろうとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、ベッタリ地上へへたばる[#「へたばる」に傍点]と、何んと生あるもののように、ムクムクと背中を持ち上げ[#「持ち上げ」に傍点]たではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラスラと、一筋の白布が濛気のように、空に向かって巻き上がったが、飛び去る蝶を追っかけた。
何んという卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。
シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
もがいているのは小一郎で、今や溺れようとしているのであった。小一郎は水練には達していた。しかし全身|疲労《つか》れていた。転落する時腕を挫《くじ》いた。で、泳ぐことが出来ないのである。
「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
どこからも救いは来ないらしい。
だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」
つづいて現われたは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、そんなような形の舟である。船首《へさき》に竜の彫刻《ほりもの》がある。その先から総《ふさ》が下がっている。月光に照らされて朦朧と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶を握っている。
小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門になろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こう云ったのは梶を握っていた女。
「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は韋駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐《あね》ごが惚れなければいいが」
「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クックックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛《はし》って行く。
ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こうの岸は三囲社《みめぐりのやしろ》、こっちの岸は金竜山、その金竜山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。
「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いたは男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人ではあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纒っている。「それはそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚きましたよ」
「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。
二十五
「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困ったな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷《ひど》く憂鬱になり、部屋へ一人で閉じこもり、研究に浮身をやつしているとは。……ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹ともなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学者というものは変なものだな。変梃《へんてこ》な蝶をなくしたことぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここを自分の家だと思って、気随気儘にくらすがいい。何んと云っても私とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になるだろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然《ぼんやり》遊んでいたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うがいい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひとつ反対《あべこべ》に弟子でも取って、お前さん
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