がそのおりから谷を越した、ずっと向こう側の山の上から、ドッと喊声が湧き起こった。
 一挺の山駕籠がまず現われ、それに続いて二、三十人の武士が、黒蟻のように現われた。谷を見下ろしているのである。
「おおあれは田安勢だ!」こういう声が聞こえて来た。冷泉華子の声である。山駕籠の中から叫んだのらしい。「あの山駕籠に乗っている者は、北王子妙子さんに相違ないよ」
 こうして田安勢と一ツ橋勢とが、顔を合わせることになったが、それにしても田安勢は何んのために、北王子妙子を山駕籠に乗せ、こんな所へあらわれたのだろう。
 説明するにも及ぶまい。同じく山尼の居場所を突き止め、永世の蝶を取り返そうと、やって来たものに相違ない。
 ふたたび乱闘は行われよう。
 秩父山中を血に染めて、切り合うことになるだろう。
 それにしても小一郎や集五郎や、冷泉華子や妙子までが、探し求めている山尼の群が、はたしてそんな秩父山中の、桐窪などにいるのだろうか?

 ここは桐窪の一画である。
 盆地が広く開いている。
 晩夏の日光を刎ね返し、天幕が無数に立っている。わけても大きな天幕の中に、さも長閑《のどか》そうに話している、面白い対照の男女があった。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、こうおっしゃったのでございますよ。ほんとに面白いお師匠様で」
 こう云ったのは鯱丸《しゃちまる》である。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、面白い言葉でございますこと、どういう意味なのでございましょう」
 こう云ったのは桔梗様である。
「そうかと思うとお師匠様は、こうも云うのでございますよ。鯱丸よ鯱丸よパッチリコ! 鯱丸よ鯱丸よパッチリコ!」
「おやおや今度はパッチリコで、どういう意味なのでございましょう」さも楽しそうに桔梗様が訊く。
「そうかと思うと、お師匠様はこう云うのでございますよ」またもや鯱丸はやり出した。
「グルグルチン! グルグルチン!」
 とうとう桔梗様は吹き出してしまった。
「だんだんむずかしくなりますのね。ねむねむゴーからパッチリコになり、そうしてそれからグルグルチン……何んだか妾には解らない」
「何んでもないのでございますよ」いよいよどうやら鯱丸は、その説明に取りかかるらしい。「ねむねむというのは、眠れということで、ゴーというのは鼾《いびき》のことで、つまりゴーッと鼾を立てて、眠れということなのでございますよ。私が晩《おそ》くまで起きていますと、そうお師匠様がおっしゃるので、パッチリコと申すのは反対なので、眼をパッチリコと開けるようにと、こういう意味なのでございますよ。朝寝坊をしておりますと、そうお師匠様がおっしゃいますので、ところでグルグルチンですが、谷川へ行ってグルグルと、顔を洗ったら音を立てて、チンと鼻をかむ[#「かむ」に傍点]がいいと、こういう意味なのでございますよ。はいはいみんな何でもないことで」
 なるほど説明を聞いてみれば、何んでもないことではあったけれど、鼠の衣裳に腰衣《こしごろも》を付けた、縹緻《きりょう》のいい愛くるしい鯱丸が、真面目な顔をして話すのであった。
 どうにも桔梗様には可笑《おか》しかった。で明るく笑った時、その明るさを抑えるかのように、陰気な不気味な梵鐘《ぼんしょう》の音が、盆地の一所から聞こえて来た。

        五十一

「昆虫館再興は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 同じ山尼の連中によって、昆虫館は閉鎖されたのであったが、それがふたたび興されたについては、重大な理由がなくてはならない。
 秩父連山の山尼の部落の、深い谷の底から鐘の聞こえたのは、衆を集める合図であった。で無数の山尼達が、めいめいの天幕から走り出て、谷底の方へ走って行ったが、それは壮観というべきであった。切り下げ髪を風に靡《なび》かせ、また腰衣《こしごろも》を風に靡かせ、数百の尼が走って行く。
 その谷の底の大岩の上に、一人の山尼が立っていたが、他でもない高蔵尼であった。
「物見の者から知らせが来た。昆虫館では衆を集め、戦いの準備をしているそうだ。だから棄てては置かれない。昆虫館へ押し寄せることにしよう」
 これが高蔵尼の命であった。
 それから行われた行軍は、非常に面白いものであった。一挺の山駕籠へ高蔵尼を乗せ、それを囲んで有髪の尼達が、秩父連山を縦断して三浦三崎の方へ出かけたのである。
 ところが一方昆虫館でも、一つの事件が起こっていた。
 と云ったところで変わったことでもなく、戦いの準備をしているのであった。
 隅田のご前の部下の者や、七福神組が走り廻わり、それの準備をやっているのであった。
「さあ壕を掘れ、鹿砦《ろくさい》をつくれ、墻壁《しょうへき》をこしらえろ、掩護物《えんごぶつ》を設けろ、小杭を打ち込め、竹束を束ねろ! 武器の手入
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