遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃《すた》れましたな」
「何故な?」と集五郎はトホンとした。
「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」
「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。
「アッハハハ御世の有難さで」
「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。
「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急《せ》くのは集五郎である。
「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上《かみ》にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこち[#「おっこち」に傍点]ましたよ、あの小篠という河原者にな」
「抜け!」と集五郎は威猛高《いたけだか》である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」
「剣侠も女にはまって[#「はまって」に傍点]は」と小一郎はかまわず云いつづける。
「いやはや一向値打ちござらぬ」
「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」
「剣より女の方が魅力がある」
「何を馬鹿な! それがどうした」
「そこで俺は徹底する」
「え?」と集五郎は一歩|退《の》いた。
「人を切れという小篠の言葉、それに手頼《たよ》って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。
 はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。
 同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱《しご》くと早襷《はやだすき》! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食《は》み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体《からだ》がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠《わだかま》った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来
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