ので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
と、大岩の背後《うしろ》から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏《まと》っているのは胴服《どうふく》であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀《オランダ》風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。戴いている帽子も和蘭陀風で、清教徒でも用いそうな、鍔広で先が捲くれ上がっている。
八
帽子を洩れた白髪の、何んと美しいことだろう。肩に屯《たむろ》して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学《せきがく》に相違ない。きわめて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘型《ギリシャがた》である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った顎も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長《みたけ》高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴《ヨーロッパ》に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤《おもかげ》がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振る舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、見付からないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹
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