お袖は走って行った。
胸撫で下ろした忠蔵がホッと溜息を吐いた時、サラリと丸窓が内から開き、
「おい忠蔵!」とお菊の声。
無言で忠蔵は眼を上げた。
「因果は巡る小車の、とんだ事になったねえ。ホッホッホッホッ」と凄く笑う。
しかし忠蔵は黙っている。
「お前の妹と知ったなら川へ落としもしなかったろうに。いわば妾はお前にとっては妹の敵と云うところさね。それに反して卜翁めは、お前にとっては妹の恩人。その恩人の卜翁を妾は父の敵として嬲り殺しにしているのだよ。……遠慮はいらない明瞭《はっきり》とお云い! 妾に従《つ》くか卜翁に従くか? 妾は十まで数えよう。その間に決心するがいい。一つ、二つ、三つ、四つ」
「姐御」と忠蔵は冷やかに云った。
「もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか」
「おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!」
「え! 罪もねえ妹を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「妾も卜翁をばらす[#「ばらす」に傍点]からさ」
「その卜翁は姐御の敵。ばらす[#「ばらす」に傍点]というのも解《わか》っているが、妹には罪も咎もねえ」
「それでは厭だと云うのかい?」
お菊はキリリと眉を上げた。
「…………」
忠蔵は歯を噛むばかりである。
「およしよ」と一句冷やかに、お菊は障子を締め切った。
「姐御!」と忠蔵は声を掛けた、丸窓の内は静かである。
「うん」と忠蔵は頷いたが。
「姐御々々やっつけ[#「やっつけ」に傍点]やしょう!」
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
丸窓の奥からお菊が云った。
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
忠蔵がそれをなぞって[#「なぞって」に傍点]行く。
「妾はここで三味線を弾こう。それが合図さ。きっとおやりよ」
怨みは深し畜生道
やがて日が暮れ夜となった。
夜は森々《しんしん》と更けている。
卜翁の部屋は静かである――お袖とそして卜翁とが、今、しめやかに話している。
「さてお袖」と卜翁は、真面目の口調で改めて云った。
「水死を助けてこの家へ置き、ひそかに様子を見ていると、前身夜鷹とは思われないほど行儀正しい立居振舞。さて不思議と思っていたが、今のお前の物語でよくお前の素性も解《わか》った。播州赤穂の山屋といえば大阪までも響いていた立派な塩の製造業。そこの娘とあるからはなるほど行儀もよいはずじゃ。氏より育ちとは云うけれど、やはり氏がよくなければどことなく品が落ちるものじゃ。……そこでお前に訊くことがある。十八年前海賊が突然お前の実家を襲い一家惨殺した上に家財をあげて奪ったという、その海賊の頭領の名を、其方《そち》はどうやら知らぬらしいの」
「はい」とお袖は打ち湿り。
「ただ恐ろしい海賊が、ある夜海から襲って参り、妾の家を惨酷《むごたら》しく、滅して行ったと聞いたばかり、妾はその時僅か五歳《いつつ》、乳母に抱かれて山手へ逃げ、そのまま乳母の実家で育ち、十五の春まで暮らしましたが乳母が病気で死にましてからは、日に日に悲しいことばかり、とうとう人外の夜鷹とまで零落《おちぶ》れましてござりますが、いまだに海賊の名も知らず残念に存じて居りまする」
「そうであろうと察していた。……その海賊が何者であるか俺《わし》が教えて進ぜよう」
「え」とお袖は驚いた。
「おおそれではお殿様にはご存じなのでござりますか?」
「おお俺は知って居る」
卜翁は白髯をしごいたが、
「俺は海賊の本人から親しく聞いて知って居るのじゃ」
卜翁は遠い昔のことでも思い出そうとするかのように軽くその眼を瞑ったが。
「あの頃俺は官に居た。長門守《ながとのかみ》と守名を宣り大阪町奉行を勤めていた。ちょうどその頃のことであるが、瀬戸内海の大海賊赤格子九郎右衛門をひっ[#「ひっ」に傍点]捕え千日前の刑場で獄門に掛けたことがある。その赤格子九郎右衛門こそ其方《そなた》にとっては父母の仇又一家の仇なのじゃ」
ふと[#「ふと」に傍点]卜翁は話をやめた。そうして耳を傾けた。廊下に当たってミシリという人の足音が聞こえたからである。
誰か立聞きでもしているらしい。
「誰じゃ!」と卜翁は声を掛けた。
しかし答える者もない。
と、その時近くの寺で、搗き鳴らすらしい鐘の音がボーンと尾を曳いて聞こえてきた。
「おおもう後夜か」と指を折る。
その時庭の離れ座敷から三味線の音が聞こえてきた。唄うは何? 江戸唄らしい。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]ほんに思えば昨日今日
…………
[#ここで字下げ終わり]
それはお菊の声であった。
「人を避けて籠っていたが、今夜は気分がよいと見えて、あのよ
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