全能の神よ、死後まで祈祷すべし、尚神に願うべきことあり、正直に導けよ、邪道に導くなかれ』また曰く『告白せよ、神は唯一なり、信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし』と。――吉利支丹《キリシタン》には非ず。有司放任す。信者|数多《あまた》あり、いずれも謙遜」云々。
 古い文献に記してある。
 で、その信者達が住んでいたので、勘解由店と云ったのである。数十軒かたまっていたらしい。
 その一軒に刑部という男が、やはり信者として住んでいたが、カアバ勘解由と親交があり、最も信任されていた。が、刑部には商売があって、単なる信者ではなかったそうである。商売というのは古物商で、特に異国の珍器などを、蒐集していたということである。で、好奇《こうず》の富豪連や、大名などが手を廻して、取り引きをしたということである。
 以上は将軍家光時代、寛永年間のことなのであるが、それから数十年の時が経って、享保十五年になった時には、多少趣が変わっていた。
 すなわち代々勘解由という名をもって、男性ばかりが継いで来た家が、この代になって女性となり、信者が目立って減って来て、その代わりにただの市民達が、勘解由店へ続々移り住み、普通の貧しい部落となったことが、その一つの変化であり、勘解由家の後を継いだ千賀子という女が、勘解由家代々の主人のように、権力を持っていないばかりか、肝心の実家へもろくろく住まず、江戸の市中や地方などへ出て、人相だの家相だの身の上判断だのと、そういったような貧弱な業に、専心たずさわっているところから、家がほとんど没落してしまった。――と云うのも変化の一つといえよう。しかしある人の噂《うわさ》によれば、千賀子の代になってからであるが、二人の非常に有力の信者が、女性である千賀子を裏切って、勘解由家にとって重大な何かを、横領をしてしまったので、それで千賀子は落胆をして、そんな変なものになったのだとも云われ、いやいやそれだから千賀子という女は、奪われた何かを奪い返そうとして、放浪的生活をしているのだと、そんなようにも云われていた。
 ところで一方|刑部《おさかべ》家の方には、どういう変化があったかというに、これは勘解由家とは反対に、昔よりも一層に盛んになって、江戸における特殊の古物商として、認められるようになっていた。
 と、こんなように説明して来れば、何か初代の勘解由と
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