、万福を神に祈れ、教主マホメットの感謝を神に挨拶せよ、全幅の敬意を表せよ、神は唯一にして、マホメットは教主なりと信ぜよ。信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし」
 そうしてこの言葉は回々教《ふいふいきょう》の教典、祈祷の部の中にあるのであるから。
「回々教のようでございます」
 こう云って浪江は寂しそうに答えた。
 そういう浪江の答えぶりによって、茅野雄は浪江が信者でないことを、ハッキリ感ずることが出来た。
 で、茅野雄は尚も訊いた。
「どういう機会から飛騨の山中の、こんな寂しい物恐ろしい、丹生川平というような所へ、伯父様はおいでなされたのでござろう?」
「妾にも解らないのでございますよ。ある日父上にはこう仰言《おっしゃ》って、無理矢理に一家を引きまとめてこの土地へ参ったまででございます。『素晴らしい物を手に入れた。江戸にいては危険である。山中へ行って守ることにしよう』……」
「しかしわずかに五年ばかりの間にこのような建物を押し立てたり、このように信者を集めたり、よく行《し》たものでございますな」
「父は力を持っております。人を魅する不思議な偉大な力を! で、信者達が集まって来まして、このような建物をまたたく間に、建ててしまったのでございます」
「白河戸郷という彼《あ》の土地にも、同じように回々教《ふいふいきょう》の信者が、集まっているようでございますな」
「ええ」と、浪江は苦痛らしく云った。
「それで父上には白河戸郷を、憎んでいるのでございます」
「同宗という誼《よし》みから親しくすればよろしいのに」
「父は反対に申しております。白河戸郷を滅ぼして、彼《あ》の地に立っている神殿のうちの、重大なものを持って来なければ、丹生川平の本尊は、完全であるとは云われないと」
「白河戸郷の長という人は、どういう人物にございますな?」
「父の同門でありましたそうで。そうして父と同じように、何か重大な物を持って、父とほとんど同じ時に、父のように江戸から身を隠して、白河戸郷へ参ったのだそうで」
 そう云った浪江という娘は、面長の顔、愁えを含んだ眼、肉感的のところなどどこにも見られない薄手の唇、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]で痩せぎすで弱々しそうな体格! 一見人の同情を呼び、尊敬を呼ぶに足るような、そう云ったような娘であった。それでいて一本の白百合のような、清浄
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