真間の手古奈
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)燕子花《かきつばた》
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一
一人の年老いた人相見が、三河の国の碧海郡の、八ツ橋のあたりに立っている古風な家を訪れました。
それは初夏のことでありまして、河の両岸には名に高い、燕子花《かきつばた》の花が咲いていました。
茶など戴こうとこのように思って、人相見はその家を訪れたのでした。
縁につつましく腰をおろして、その左衛門という人相見は、戴いた茶をゆるやかに飲んで、そうして割籠のご飯を食べました。
その家はこのあたりの長者の家と見えて、家のつくりも上品であれば、庭なども手入れが届いていました。
「よい眺めでござりますな」
お世辞ともなくこのようにいって、生垣の向うに眺められる八ツ橋の景色を眺めおりました。
左衛門はその頃の人相見としては、江戸で一番といわれている人で、百発百中のほまれがありました。人相風采もまことに立派で、人の尊敬を引くに足りました。で、山間や僻地へ行っても、多くの男女に尊敬され、いつも丁寧にあつかわれました。
この時も左衛門は名のりませんでしたが、神々しい人相や風采のために、その家――泉谷《いずみや》という旧家でありましたが――その泉谷の家族達によって丁寧な態度であつかわれました。
「真間《まま》の継橋《つぎはし》へも参ったことであります。矢張《やは》りよい景色でござりました。ここにも継橋がございますな」
いかさま継橋が見えていました。
八筋の川が流れて居りまして、一筋ごとに橋がかかっていて、継橋をなしているのでした。
継橋の数が八ツなので、そこで八橋ともいうのでした。
「憐れな伝説がございます」
左衛門の前へ穏かに坐って、左衛門と一緒に茶を喫し、長閑《のどか》に話していた泉谷の主の、彦右衛門という人物は、こう左衛門にいった後で、その憐れな伝説を、古雅な言葉つきで話しました。
「仁明の御皇《みかど》の御代《みよ》でありましたが、羽田玄喜という医師がありまして、この里に住居《すまい》して居りました。女房と申すのがこの里の庄司の、継娘《ままむすめ》でありましたが、気だての優しい美しい縹緻《きりょう》の、立派な女でありまして、二人の間に男の子が、二人あったそうにござります。ところが玄喜は三十歳の時に、病気でなくなってしまいましたので、女房は気の毒な寡婦の身となり、子供は孤児となりまして、家計も貧しくなりました。が、女房は健気《けなげ》にも、他へ再婚しようともしないで、山へ登って行って薪を拾ったり、浦へ出て行って和布《わかめ》をかったり、苦心して子供を育てました。つまり二人の子を養育して、亡き良人《おっと》の業をつがせようものと、辛苦したのでございます。然るに長男が八歳となり、次男が五歳となりました時に、悲しい出来事が起こりました。というのは、或日でありましたが、川の向う岸に沢山《たくさん》の海苔《のり》が粗朶《そだ》にかかっているのを見て、母親がとりに渡りましたところ、後を慕って二人の子供がこれを渡って行きました。と流れが急でありましたので、二人の子供は溺れ死にました。どのように母親が嘆き悲しんだか? 想像に余るではありませんか。で、母親は髪をおろし、尼となって朝夕念仏をし、菩提を葬ったのでありますが、『橋さえかかって居ったならば、このようなことは起こらなかったであろう、どうぞして橋をかけたいものだ。将来人助けにもなるのだから』不図《ふと》こんなことを思ったそうです。と、或日大きな流れ木が、河の岸へ横付けになりました『これこそ丁度幸いだから、この流れ木で橋を架けることにしよう』――で、橋をかけにかかりましたところ、流れが八筋ありましたので、次から次と流れ木を捨って、八ツながら橋をかけましたそうで。そこで八ツ橋という名が起こって、名所になったのでござります」
その時十八九にもなりましょうか、美しい娘が菓子皿を持って、奥の座敷から出て来ましたが左衛門の前へ菓子皿を置くと、しとやかに辞儀をいたしました。
で、左衛門も辞儀を返しましたが、
「ああ……これは……ううむ……悪いぞ」
と、口の中でこう呟いて、まじまじと娘の顔を見ました。
人相見の左衛門でございます。何か娘の人相の中に、不吉の形を見たがために、そう呟いたのでありましょう。
が、彦右衛門には解りませんでした。
「私の娘、蘭でございます」
こう左衛門にひきあわせてから作男へ指図しようとして、庭下駄を穿くと裏手の方へ足早に行ってしまいました。
二
で、縁へは左衛門とお蘭と、二人だけが残ってしまいました。
と、左衛門でありましたが、何気ない様子で話しかけました。
「――から衣きつつなれにし妻しあれば、はるばる来ぬる旅
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