い止めた。
「この後にもあるそうではございますが、残っていないのでございます。ええこの後にも続く歌が。……妾《わたし》はどんなに後に続く歌を、知りたいと願っているでしょう。……死なれたお父様が死なれる前に、妾にこのように申しました。『後に続く歌を知ることが出来たら、お前は幸福になれるだろう。右のこめかみに大きな痣《あざ》のある男が、一人知っているばかりなのだが』と……」
(右のこめかみに痣のある男? はてな?)と京一郎は首を傾《かし》げた。思いあたることがあったからである。でも(まさか!)と思い返した。あんまり莫迦気ているからである。
しかし彼はこんなように思った。(この女が幸福になることならわしは何んでもしてやりたい)その時女の云う声が聞こえた。
「お父様の遺伝なのかもしれません、大船に乗って広い海へ、妾は行きたいのでございますの、好きなお方と! わだかまりなく!」
京一郎がお蝶の家を出て、自分の家へ帰ったのは、それからしばらく経ってからであった。京一郎が出たのと引き違いのように、お蝶の家へはいって来たのは二十八、九歳の威厳のある武士で、貴人のように高尚であった。駕籠に乗って来たのである。
「どうであったか?」とその人は云った。
「はい」とお蝶は微笑したが、「大体うまく参りました」
「歌を聞かせてやったろうな」
「聞かせてやりましてございます」
「今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな」
「はい、さようでございますとも」
「直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし」
「はい、さようでございますとも」
「それで傍流から手をつけたのが……」
こう云って来て貴人のような武士は、円行灯《まるあんどん》の黄味を帯びた光に、正しい輪郭を照らしていた顔を、にわかに傾《かし》げて聞き耳を立てたが、急に立ち上がると円窓を開けた。
窓の外は狭い坪庭《つぼにわ》であって、石灯籠や八手《やつで》などがあった。その庭を囲んでいるものは、この種の妾宅にはつき[#「つき」に傍点]物にしている船板の小高い塀であった。
「これ、誰だ!」と武士は云った。しかし坪庭には人はいなかった。ただ横手の露路へ出られる、切り戸口の傍らに立っている、満開の桜の下枝から、花が散っているばかりであった。
「どなたか?」と、お蝶が不安そうに訊いた。
「さあ、何んとなく気勢《けはい》がしたが……」
この頃|十二神《オチフルイ》貝十郎は、自分の妾宅へ寄ろうともせず紗を巻いたように霞んで見える、月夜の露路を本通りの方へ、考えながら歩いていた。
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
本通りへ出ても人気がなかった。夜が更けているからであった。肩の辺に散っている桜の花弁を、手で払いながら貝十郎は歩いた。(京一郎という男は塩屋の伜だ。……昔の塩屋と来た日には、盛大もない家であったが……)人気がなくても春の夜は気分において賑やかであった。猫のさかっている声などが聞こえた。
(あの歌? ……あんなもの、何んでもありゃアしない。……しかしあの後を知ることが出来たら……)
(よし、俺は本流へぶつかってやろう!)
「面白いな」と声に出して云った。
「負けても勝っても面白い。大物を相手にして争うのだからな」
夜警の拍子木の音がした。
四
「ね。お母様。行かせてください。どうしたって行かなければならないのです」
京一郎は思い詰めた口調で、こうまとも[#「まとも」に傍点]に母親へ云った。ここは本所安宅町の、掘割に近い一所に、大きいが古く立っている、京一郎の家であった。その家の奥の座敷であった。更けた夜だのに五月幟が、風になびいている音が聞こえた。近くの家でうっかりして、取り入れるのを忘れたのであろう。
「京一郎やお前はどうしたのだよ、もうそんなことは云わないでおくれ。妾はそんなこと聞くだけでも厭だよ」
母親のお才は四十九歳であったが、勝れた美貌であるところから四十ぐらいにしか見えなかった。そう云ってから京一郎の顔を、当惑と不安と親の慈愛と、それらのもののこもった眼付きで、嘆願するように凝視した。(この子はお父様に大変似ている。思い立ったことなら、何んでもやり通す! ほんとにこの子は妾を棄てて家出をしてしまいはしないだろうか)お才は恐ろしくさえ思うのであった。
「ねえ京一郎や」とお才は続けた。「こんなこと妾が云い出しては、お前はバツを悪がるかもしれない。でも妾は云ってしまおう。誰かお前の背後にいて……そう、それも女がいて、お前に云わせるのではないかえ。そんなように妾には思われるがねえ……」
こう云われて京一郎は横を向いたが、顔がいくらか赧らんだようであった。でも彼が母の方へ向いて、おめもせずにこんなように云い出した時には、そういう赧らみはなくなっていた。
「ええお母様、そうなんですよ。女が背後《うしろ》についております。その人が私へそう云わせるのです。でもそればかりではありません、たといその人が背後《うしろ》にいなくとも、早晩私は同じようなことを、お母様に云い出したに相違ありません。ただ、あの人が私へ来たために、云い出すのが早くなったばかりなのです。……だってそうじゃアありませんか。私達の家は何んていうのでしょう。ガランとしていて寂しくて、陰惨としていて墓場のようです。その辺に沢山幽霊がいて、私達を見守ってでもいるようです。大きな屋台骨、暗い間取り、荒れ果てた庭、煤けた階段、陽の目さえ通さないじゃアありませんか。ここにじっとして坐っていると、私は滅入ってしまいそうです。……いえそれよりもっともっと[#「もっともっと」に傍点]、大事なことがあるのです。それはお母様とお父様なのです。まあどうでしょうお父様と来ては、年が年中|離座敷《はなれ》ばかりにいて一度として主屋《おもや》へはいらっしゃらない。一度として戸外へおいでにならない。庭へさえ出ないじゃアありませんか。その上お母様や私をさえ、はいらせようとしないじゃアありませんか。ええそうです離座敷《はなれ》の中へ。……つまりお父様は狂人なのです。それもひどい人間嫌いの。ところでお母様はどうかというに、猫可愛がりに私を可愛がってお父様へ接近させまいとする。教えることは何かと云うに、じっとしておれ、穏しくしておれ、世間へ出るな、出世など願うな――と云うようなことばかりです。そうしてお母様はおっしゃられる、二十五歳まで待つがよい。その時お前は金持ちになれると! ……そういう私の家庭です。こういう家庭にじっとしていれば、青年としての活気が失われます。出て行かなければなりません。出て行って私は何かしたいのです」
「そういうことを云わせるのも、お前についている女だと思うよ。妾にはその女が憎くてならない」
「悪い女ではございません、お母様誤解してくださいますな」
――京一郎にとってはお蝶という女は、悪い女ではないのであった。自分に勇気をつけてくれる、むしろ有難い女なのであった。その上その女は愛してくれた。
ああいうことからお蝶に逢い、これから後も来てくれと云われたので、京一郎は家を抜け出しては、お蝶の家へ忍んで行った。そのうち自分もいつとはなしに、お蝶に恋をするようになった。
「妾はあの夜お逢いしました時から、あなた様を愛しておりました」
「私もそうなのでございます」
とうとう互いに打ち明け合った。そうやって親しみを重ねて行くうちに、お蝶という女が覇気に富んでいて、京一郎と連れ立って、遠方へでも走って行ってしまおうと、心巧みをしているような、口吻《こうふん》を洩らすようなことがあった。しまいには露骨に勧めるようになった。
「若い時期《とき》は早く過ぎて行くものです。享楽しようではありませんか。妾はいつでもお供をします。あなたには早く決心なされて、陰気な、無気力な、生き甲斐のない、ご両親の家などお出なさいまし。外にはもっと華々しい、活気に充ちた生活があります。そうして男というものは、何か事業《しごと》をしないことには、男としての真の楽しみを、感じないものでございます。外にはいくらでも事業があります」
などというような意味のことを、率直に云ってそそのかしたりした。
五
京一郎は性格として、活動的の人間であって、箱入り息子式に生活させられることを、ひそかに以前《まえ》から嫌っていて、そのため両親へは内密に、町道場へ通って行き、竹刀《しない》の振り方など習うほどであった。
で、愛するお蝶の口から、そんなように勧められると、一も二もなく家を出て外へ行きたかった。でお蝶へ云うのであった。
「出ましょう、出ますとも、家を出ましょう! お蝶様ご一緒に行ってくださるか」
「行く段ではございません……でも」
と、すると、どうしたことか、ここで、いつもお蝶は言葉を濁し、暗示めいたことを云うのであった。
「でも、世間へは手ぶら[#「ぶら」に傍点]では、出て行けるものではございません」
「手ぶら[#「ぶら」に傍点]で! 手ぶら[#「ぶら」に傍点]とは? 何んのことでしょう?」
「世間は薄情でございます。薄情の世間と戦うには、戦うだけの用意をしなくては……」
「いえ、私はこう見えても、体は強うございますから……」
「体も体でございます。……それより、何よりお金がないことには……」
「金!」「ええ」
「金なんか」「あって?」
「いいえ。……でも、当座の……少しぐらいの金でしたら……」
「少しぐらいの当座の金などで……」ここで一層お蝶は暗示的に、このようなことを云うのであった。
「あの[#「あの」に傍点]歌の後さえ解りましたら、金はなんぼでも出来るのですが。……あの歌の後を知っている者は右のこめかみに痣《あざ》のある老人ばかりなのでございます」
「私の父の右のこめかみにも、痣があるのでございますよ。……でも私の父などが……」
「後の歌をお聞き出しくださいまし」
(変だな)と京一郎は思うのであった。
(父がそんな歌を知っているだろうか?)――とにかくこういう経緯が、幾度か繰り返されて昨夜となった。そうして昨夜もお蝶と逢った。するとお蝶は嘲笑《あざわら》うような、いつもとは異う口吻で、このような意味のことを云った。
「あなた様とは今晩限り、お逢いすることは出来ますまい」
「何故?」と京一郎は胆を冷やし、うわずった声で訊き返した。
「さあ、何故と申しましても……」
ここでお蝶は云いよどんだが、けっきょく京一郎が意気地《いくじ》がなくてお蝶の希望を叶わせようとしない、で愛想を尽かしてしまってお蝶一人でどこへとも行こう――そう決心をしたのであると、明瞭《はっきり》とではなかったが云った。
「ふーむ」と京一郎は考え込んだ。もうこの頃の京一郎は、お蝶がないことには一日として、生きて行かれないというほどにもお蝶に心を奪われていた。
で彼はカッとしてしまった。カッとした心で夢中のように誓った。
「それでは必ず明晩にも……」
「そう」とお蝶は頷いて見せた。
「では妾は明日の晩には、あなた様のお家の裏口の辺でお待ちしていることにいたしましょう」
その明日の晩が今となった。
こうして母と話している間も、恋人が家の裏口にいるのだ――そういう気がかりが京一郎の心を、わくわくさせてならなかった。
「お母様!」と京一郎は語気を強めて云った。
「二十五歳になった時に、私は大金持ちになれるのだとよくお母様は申しました。お母様お願いいたします。今、お金持ちにしてくだされ!」
「京一郎や、まあお前は……」お才は声を顫《ふる》えさせて云った。
「そんなお前、勝手なことを!」
「ねえお母様、お金をくだされ!」
「そういうことも背後《うしろ》にいる女が……」
「ねえお母様、お金をくだされ!」
六
例の歌についてお蝶の云った、あの言葉などは京一郎といえども、信ずることは出来なかった。あの歌の後につづく歌を、聞き出すことが出来たなら
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