」に傍点]のは、小間使いのお菊ではあったけれど。
 ある時などは二人の女が、お島の部屋で物も云わず、互いにその手を握り合って、互いに頬を寄せ合って、うっとり[#「うっとり」に傍点]としているようなことがあった。同性ではあるが二人の肌が、着物を通して触れ合って、その接触から来る温《あたた》かみを、味わい合っていると云いたげであった。
 お島の憂欝を祈祷《きとう》によって、快癒させようと心掛けて、大日坊という修験者を、この寮へ出入りさせて、祈祷させるように取り計らったのは、お菊が小間使いとして住み込んで、十日ほど経ってからのことであった。云い出したのは勘三であった。お菊は好まない様子であった。それだのに勘三はある日のこと、お菊に向かってこんなことを云った。
「お前が大日坊を勧めたのじゃアないか。何んだ、それだのに今になって」
 大日坊は物々しい、白の行衣などを一着して、隔日ぐらいにやって来て、お島の前で祈祷をした。
 と、どうだろう、娘のお島は、そういう祈祷が始まった頃から、例の奇病に取りつかれてしまった。しかし勘三も大日坊も云った。
「病気の癒《なお》りかけというものは、かえって苦しみを増すもので、その胸の痛みもやがて癒ろう。それと一緒に気欝性も、綺麗に癒ってしまうだろう」と。
 しかしお島のその奇病は、いよいよ勢力を逞しゅうして、お島は眼に見えてやつれて行った。ところがある日この寮へ、一人の酒屋のご用聞きが来た。出入りの杉屋という酒屋があったが、そこへ来たご用聞きだということである。
「これからは私がご用をききに来ます。どうぞ精々ご贔屓《ひいき》に。へい、私は仙介という者で」
 などお三どんや仲働きや、庭掃きの爺やにまで愛嬌を振り撤いた。三十がらみの小粋な男で、道楽のあげくにそんな身分に、おっこちたといいたそうなところがあった。
「ご用聞きには惜しいわね」などとお三どんは仙介のことを、仲働きへ噂したりして、仙介の評判は来た日から良かった。がしかしお菊だけは、その仙介を胡散《うさん》そうに見た。
「あの男の眼付き、気に食わないよ。それにさ、手の指が白すぎるよ。食わせもののご用聞きだよ」などと云って警戒した。
 こうして今日の日の前日になった。
 この日も大日坊はやって来て、お島の前で祈祷したが、それが終えると奥へ行き、勘三とお菊と三人で、何やらヒソヒソ話し出した。それから酒になったようである。
「大日坊、今日は泊まっておいで」
 などという勘三の声が聞こえた。
「そうねえ、大日坊さん泊まって行くがいいよ」
 お菊の声も聞こえたが、何んとなく不安そうな声であった。
「姉ちゃん、お庭へ行って遊びましょうよ」
 こういう間にお島の部屋では、お島にとっては姪《めい》にあたる、八歳のお京という可愛らしい娘が、お島に向かって甘えていた。

        六

 お島は寂しいところから、一つは姪のお京の家が、貧しい生活をしているところから、お京を寮へ引き取って、玩具《おもちゃ》の人形でも愛するようにして、ずっと以前から育てて来た。お京は愛くるしい性質で、悪戯《いたずら》もしたがその悪戯さえ、可愛らしく見えるという性《たち》であった。
「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」
 しかしお島は黙っていた。いつもよりは今日は気持ちが悪く、返辞をするのさえ大儀だからであった。
「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」
 お京はなおもせがんだが、お島が返辞をしないので、つまらなそうに部屋を出て、一人で庭の方へ行こうとした。と、奥から賑やかな、人々の笑い声が聞こえて来た。お京へ子供らしい好奇心が起こって、奥の方へはいって行った。
 酒盛りをしている次の部屋が勘三の常時《いつも》いる部屋であって、高価な調度などが飾り立ててあった。その部屋までお京がはいって行った時、彼女の心を惹く物があった。手文庫の抽斗《ひきだし》が半ば開いていて、人形の顔が見えていたのである。
「まあ」
 と彼女は嬉しそうに云って、抽斗からそっと人形を取り出し、部屋を出て庭へ走り出た。庭には午後の日があたっていて、遊ぶによくポカポカと暖かかった。
 山吹がこんもりと咲いていて、その叢《くさむら》の周囲《まわり》には青み出した芝生が、茵《しとね》のように展べられていた。山吹の背後《うしろ》には牡丹桜が重たそうに花を冠っていた。お京は芝生へ坐り込んだが、人形を膝の上へ大事そうに乗せると、しばらく熱心にもてあそんだ。
 それは縫いぐるみ[#「いぐるみ」に傍点]の人形であって、派手な振り袖が着せてあった。大きさはおよそ五寸ぐらいで、顔は十八、九の女の顔であった。
 そうやってしばらくもてあそんでいたが、そこは子供のことであった、やがて飽きると抛《ほう》り出して、何やら流行唄《はやりうた》をうたい出した。と、その時一人の男が、こっそりとこっちへ近寄って来た。今まで勝手口でお三どんを相手に、油を売っていた仙介であった。
「おやおやこれはお嬢さんで、……日向《ひなた》ぼっこでございますかな」
 こんなことを云いながら近寄って来たが、抛り出されてある人形を見ると、すぐに取り上げてじっと[#「じっと」に傍点]見た。
「…………」
 何んとも云いはしなかったが、仙介の眼の光ったことは! とにわかに「痛い!」と云った。
 見れば仙介の拇指《おやゆび》から、血がポッツリと吹き出している。人形の胎内に針があって、強く握った時それの先が、拇指の一所を刺したものと見える。
「そうか!」と仙介は思いあたったように云った。
「これですっかり見当が付いた!」
 どうしようかと云ったように、一瞬仙介は考え込んだが、チラリとお京へ眼を移してから、素早く人形を懐中しようとした。が、その時植え込みの背後《うしろ》から、
「お嬢様!」
 と呼ぶ声が聞こえて来たので、あわてて仙介は人形を取り出し、お京の膝の上へ投げるように置き、庭を横切って姿を消した。それと引き違いに姿を現わしたのは、他ならぬ小間使いのお菊であった。
 仙介の後を見送り見送り、お京の側までやって来たが、お京の膝の上の人形を見ると、ギョッとしたように眼を躍らせ、すぐに取り上げて袖の中へ引き入れ、つかつかと家の方へ走って行った。

        七

 十二神《オチフルイ》貝十郎の邸の玄関へ、同心の佃三弥と連れ立ち、仙介が姿を現わしたのは、それから間もなくのことであり、二人の姿が邸の中へ消え、やがて邸から現われたのも、それから間もなくのことであり、十二神貝十郎がそれと続いて、邸から出て駕籠に乗り、品川にある和蘭《オランダ》客屋を、訪ねたのも間もなくのことであった。
 こうしてこの日は暮れてしまった。

 さて、いよいよ今日の日である。昨日から泊まり込んでいた大日坊は、この日もお島に祈祷をした。お島の衰弱はいちじるしく、放心状態になっていた。しかも心ではどうともして、この苦しみから遁《の》がれ出たいものと、あえぐがように願っていた。祈祷が終えると部屋から脱け出し、夢心地のように庭へ出たが、庭を脱けると当てもなく、両国の方へ歩いて行った。
(寮は妾《わたし》にはまるで地獄だ。あそこの空気は息苦しい。あそこの空気は寂しくて凄い。賑やかで楽に呼吸のつける、どこかへ妾は行ってしまいたい)
 彼女はこういう心持ちで歩いた。そういう彼女を寮の近くから、後を尾けて来た侍があったが、他ならぬ十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
(どうぞして誰にも悟られないように、あの娘を連れ出そうと思っていたところ、幸い自分から脱け出して来た。さてこれからどうしたものだ)
 貝十郎は思案しいしい、お島の後から尾《つ》けて行った。
 両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽《ひょうきん》の口上を放心的態度で、聞きながら佇《たたず》んでいるのを見ると、貝十郎は頷いた。
(一つ暗示を与えてやろう。ああいう娘には暗示がかかる。藤兵衛を利用して暗示をかけてやろう)
 喋舌っている藤兵衛の背後《うしろ》に廻って、貝十郎が藤兵衛の耳へ、立ち合いの群集に気づかれないように、囁きかけたのはそれからであり、藤兵衛がお島へお島のことを、話しかけたのもそれからであった。

 ここで事件は和蘭《オランダ》客屋の、奥の部屋へ帰って行かなければならない。鏡へお菊と大日坊と勘三との姿が写っていて、お島ににせ[#「にせ」に傍点]た人形が、机の上に置いてあった。
 三人は何やら云い争い出した。勘三が最も多く喋舌り、大日坊へ何かを強いているようであった。それをお菊が悩ましそうに、熱心に止めている様子であった。そういう二人の間に立って、大日坊は当惑している様子であったが、やがて何やらお菊に向かって、訓《さと》すがように説き出した。その三人であるが、話し合っている間じゅう、机の上の人形の方へ、たえず瞳を注いでいた。
 そういう光景が黒塗り蒔絵の、額縁を持った大鏡の中で、芝居ででもあるかのように、ハッキリと写っているのである。
 大日坊はお菊を説き伏せたようであった。お菊を説き伏せた大日坊は、やおら人形へ近よると、鋭く人形を凝視した。手に戒刀を握っている。と、その戒刀が頭上へ上がった。思う間もなく切り下ろされた、と、その瞬間鏡中の世界を、佇んで見ていたお島の体へ、頭上からフワリと布が冠《かぶ》された。
 甲必丹《キャピタン》カランスが背後から、手に持っていた黒布《くろぬの》を、その瞬間に冠せたのであった。
「あれ!」
 とお島は意外だったので、黒布《くろぬの》の中で声を上げた。しかしその次の瞬間には、黒布《くろぬの》は既に取り去られていた。お島は鏡中の世界を見た。三人の男女が審《いぶか》しそうに、人形を取り上げて調べている。戒刀で人形を切ろうとしたのらしい。しかるに人形が切れなかったので、驚いているという様子であった。人形が机の上へ置かれた。また大日坊は戒刀を振り上げた。
 その戒刀が鏡の中で、白く横の方へ流れた時、またもお島は背後から、黒い布で全身を包まれた、が、その刹那《せつな》迂濶千万にも、お島は髪を崩すまいとして、片手で黒布を上へ揚げた。その拍子に指の先が布から出た。
「痛い!」とお島は悲鳴を上げた。
 布が体から取り去られた時、お島の右の手の中指の先から、血が掌の方へ流れていた。切り傷がそこについている。と、鏡中の世界の人は、またも人形を取り上げて、奇怪至極だというように、その人形を調べ出した。人形の左の手の中指に、どうやら傷でもついたらしく、そこを三人は調べ出した。
 またもや人形は机の上へ置かれ、またもや大日坊は戒刀を振り冠った。そうしてまたもやお島の全身が、黒布《くろぬの》によって蔽《おお》われた。しかしその布が取り去られた時、お島の体には異変はなかったが、鏡中の人々には異変があった。戒刀が折れて折れた先が、勘三の咽喉を貫いていた。

        八

 この頃小梅の柏屋の寮を、取り囲んでいる人影があった。目明し、橋場の仙右衛門が、同心佃三弥に指揮され、乾児《こぶん》十二人と一緒になって、捕り物をすべく囲んだのであった。
 不意に深夜の静寂を破り、男の悲鳴が家の中から聞こえ、つづいて騒がしい人声が起こり、つづいて雨戸を蹴開く音がし、すぐに男女の人影が、裏木戸の方へ走って来た。
「御用!」
「何を!」
「勘助御用だ!」
「仙介か! ……やっぱり……岡っ引だったな!」
「やい、神妙にお縄をいただけ!」
「…………」
「夜叉丸! 手前も……年貢の納め時だ!」
「馬鹿め! 人足! 捕れたら捕れ!」
 小間使いお菊の女勘助と、大日坊の火柱夜叉丸とは、戸を蹴破って飛び出した。
 ご用聞きの仙介に身をやつしていた、目明しの仙右衛門は飛びかかった。ガラガラという錫杖《しゃくじょう》の音! 月光に閃めく匕首の光! ムラムラと寄せ、ガッと引っ組み、バタバタと仆される捕り方の姿! 枕橋の方へ一散に走る、夜叉丸と女勘助との姿が見えた。
「廻れ! 右の方へ! 三囲《みめぐり》の方へ!」同心佃三弥が叫んだ。
「旦那、冗談、そんな
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