もって……」
泣きながら反対する女の声がした。
「ですから三保子様を早くどなたかへ。……鏡太郎さんというあの人へでも。……お仕事! ああ、そのお仕事です! どんなに妾はそのお仕事を、憎んで憎んで憎んでおりますことか! ……そのためあなたは人相までも、変わってしまったではありませんか! ……二つの骸骨! 壊してしまおうかしら!」
「これ、お豊! 何を云うのだ!」
「旦那様! いいえ隼二郎様」
「お豊、私《わし》はお前を愛している。……ね、それだけは信じておくれ」
「妾《わたし》も、ええ妾《わたし》もですの」二人の声はここで切れた。
(さて)と貝十郎は苦笑して思った。(この後は抱擁ということになるのさ)
彼の足下には二尺幅ぐらいの、狭い廊下が左右に延び、同じくらいの狭い廊下が、前方へ向かっても延びていた。丁字形になっている廊下の中央に、彼は佇んでいるのであった。その前方に延びている廊下の、右側に大きな部屋があり、部屋の扉が開いているので、燈火と人声とが洩れて来るのであった。数歩進んで扉の口まで行き、そこから内を覗いたなら、内の様子は見えるのであった。内部の一部――床の端だけは、ここにいる貝十郎にも見て取れた。畳が敷いてないのである。板張りになっているのである。
(お豊とそうして隼二郎なのか。……いや、腕の凄い女ではある。あっちの庭では年の下の、美少年と媾曳をしたかと思うと、こっちの部屋では年の上の、金持ちの旦那を口説いている、同じ晩にさ、わずかの時間にさ。……あんな女は都会にも少ない。どうにも俺は田舎が嫌いだ)
七
この時隼二郎の声が聞こえた。
「杉田玄伯殿、前野良沢殿、あの人達と約束したのだよ、私の方が早く仕とげて見せると。……江戸でああいう人達と一緒に、研究していた頃は面白かった。……後見人となってこの家へ入り、木曽山中のこんな所で、くらしをするようになってから、私には面白い日がなくなってしまった。……お前が来てからそうでもなくなったが。……さあ私《わし》はやらなければならない。……さあお前はあっちへ行ってお休み。……あの娘が眼でも醒ますといけない。……私《わし》はあの娘《こ》を愛している。……どうもあの娘には誘惑が多い。……無理はないよああいう身分だから。……あの娘《こ》を幸福にしてやることが、死んだ兄さんへの大切な義務だ。……今日は兄さんの死んだ日だったね。……そうだ諸人接待の日だった。……私はこの日が来る度ごとに、鞭撻されるような気持ちがする。いやいや鞭撻されようために、今日を諸人接待の日に、取り決めたのだと云った方がいい。……兄さんは死ぬ前に私にあてて、気の毒な手紙をよこしたのだよ。悲痛の手紙と云ってもよいが。……お前は向こうへ行っておくれ。……ああ少し待っておくれ。接待に来てくれた人の中に、変わった人があったかしら?」
「いいえ」とお豊の云う声が聞こえた。「でも猪之助が来ていました」
「猪之助? おお猪之助が。……あの破落戸《ごろつき》が! 執念深い! ……兄の悪口を云っていたであろうな」
「ええ申しておりました」
「去年も来た、一昨年《おととし》も来た。……普通の日にもやって来て、私を強請《ゆす》ったことさえある。……あいつは誤解をしているのだ。……いやいやいや、誤解ではないが。……お豊や、私は気持ちが悪くなった。お前は向こうへ行って休むがよい」
ここでしばらく話が絶え、やがて足音が聞こえて来た。貝十郎は身を翻えしたが、素早く廊下を右の方へ走り、闇に立って窺った。と、すぐにお豊の姿が、戸口から出て庭の方へ行った。と、庭から驚いたような、お豊の声が聞こえて来た。
「ま、猪之助さん! どうしたのです!」
男の答える声がしたが、兇暴な響きを持っていた。
「退け! 今夜こそ埒《らち》をあけるんだ!」
「いけません! ……おお、誰か来てください!」
「敵《かたき》だ! 畜生め! 親の敵だ! ……待って待って待っていたのだ! ……他国からこの地へやって来て、こんな山の中へ住み込んで! 金……命を取るか、金を取るかと! ……やい、放せ! 埒をあけるのだ!」
「危険《あぶな》い! そんな、刃物なんか! ……誰か来てください! あッ誰か!」
(これはいけない)と貝十郎は、素早く入り口の方へ走って行った。が、こういう瞬間にも彼は疑問を脳裡へ浮かべた。
(俺の耳へさえ聞こえて来たのだ。隼二郎にも聞こえなければならない。どうして助けに行かないのだろう?)――で彼は庭へ飛び出すより先に、隼二郎のいる部屋を覗いて見た。
「いない! ……どうしたのだ、隼二郎はいない!」
部屋は洋風に出来ていて、巨大な飾り棚や頑丈な卓や、椅子や書架が置いてあり、卓の上には杉田玄伯や、前野良沢や大槻玄沢や、貝十郎にとっては知己にあたる、そういう蘭医達の家々で見かける、外科の道具類が置いてあり、書棚には書物が詰めてあった。
その部屋に隼二郎がいないのである。では隣室へでも行ったのであろうか? いやその部屋は四方壁で、出入り口は一つしか附いていなかった。窓はあったが閉ざされていた。そうして一つだけの出入り口からは、お豊が出て行ったばかりであって、隼二郎は出ては行かなかった。それは貝十郎も見て知っていた。
(これはいったいどうしたことだ)
八
しかし貝十郎は部屋の中へはいって、隼二郎を探そうとはしなかった。この時またも庭の方から、女と男の叫び声が、逼迫して聞こえて来たからであった。で、貝十郎は飛び出して行った。月光の中でお豊と猪之助とが――諸人接待の馳走の席で、憎々しい反抗的態度と言葉とで、征矢野家の先代の悪口を、憚らず云っていたごろつき[#「ごろつき」に傍点]のような男――その猪之助とが格闘していた。と、前方から一つの人影が、二人目がけて走って来た。
「鏡ちゃん! いいところへ! 早く来ておくれ!」
「姉さん! あぶない! ……おのれ猪之助!」
「何を、こいつら! 邪魔をするな!」
二人の格闘が三人となった。貝十郎は走って行こうとした。悪酔いがいまだに醒めなかった。足が云うことを聞かなかった。
「わッ」「斬ったな!」「態《ざま》ア見やアがれーッ」「あれーッ! 皆さん! 来てくださいヨ――!」
一人が地上へぶっ倒れた。と、つづいてもう一人倒れた。そこから一人が走り出して来た。
「待て!」と貝十郎は身を挺して、走って来た猪之助を遮《さえぎ》ろうとした。体が云うことをきかなかった。
「邪魔だ! こいつも!」
ドッとぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。よろめいた貝十郎の横をすり抜け、土蔵づくりの建物の中へ、猪之助は一散に走り込もうとした。と、赤い一点の火が、花の蕾のような形を取って、建物の入り口から現われた。扉がその背後《うしろ》で閉ざされている。
「ね、叔父様はお仕事中よ、ですからはいっちゃアいけませんの」
焔の立っている蝋燭を持ち、その光に顔を輝かせ、佇んでいる娘がそういうように云った。それは他ならぬお三保であった。隣りの部屋に眠っていたところ、庭での騒ぎが起こったので、驚いて様子を見に来たものらしい。処女らしい美しさが驚きのために、純粋性を増して見えた。唇がポッとひらいている。眼が大きくひらいている。
「ああ、あなた猪之助さんね。……どうなさいました、匕首など持って。……」
「…………」
静が動を制したらしい。猪之助は呆然として突っ立っていた。
地下室は決して暗くはなかった。
明るい燈火《ともしび》に照らされて、その地下室の上にある部屋――隼二郎の部屋の舶来の、いろいろの外科の道具よりも、もっといろいろの外科の道具が、卓や棚に備えつけられてあった。そうしてその地下室の一所に、立派な柩が二つ置かれてあり、その中に二つの骸骨が研究材料のように置かれてあった。
そうしてその側の机によって、庭に騒ぎなどあろうとも知らず、隼二郎が手紙を読んでいた。それは古びた手紙であって、諸人接待の日が来るごとに、読むことに決めている手紙であった。
「弟よ、私は自殺をする。私は家を興そうとして、物質ばかりに齷齪《あくせく》した。そうしてそのため二人の人をさえ殺した。一人は大金を持っていたからだ。一人は私の犯罪を知って、恐喝をしに来たからだ。自責のために私は死ぬ。私が縊死をした松の木の下を、試みに掘って見るがよい。二つの骸骨が出るであろう。私の殺した二人の人の骨だ。……お蔭で私は財を貯えた。お前に善用して貰いたい。私と違って学究のお前だ。その方面で尽くしてくれ。娘を頼む、三保を頼む」
後日貝十郎は人に語った。「征矢野周圃といえば木曽の蘭医で、骨格の研究では最も早く、よい文献を出している人で、その方面では有名なのだそうです。隼二郎がつまり周圃なのです。例の二つの骸骨で、実地研究をしたのだそうです。お豊という女は悪人ではなく、周圃が江戸にいた頃から、周圃を愛していた女なので、周圃が木曽へはいってからは、家政婦として入り込んで来て、周圃の研究を助けながら、周圃と夫婦になろうとしたのです。ところが周圃は真面目なので、姪のお三保に婿を取るまでは、夫婦にならないと云っていたのです。そこでお豊は弟を呼び寄せ――鏡太郎というのはお豊の弟で、これも大した悪人ではなく、軟派の不良の少年だったのですが、弟とは云わずに附近に住ませ、お三保とくっつけ[#「くっつけ」に傍点]ようとしたのです。お三保が誘惑に応じないので、誘拐しようとまでしたのです。だが可哀そうに鏡太郎もお豊も、猪之助に切られたのが基となって、間もなく死んでしまいました。猪之助ですか、ありゃア解りません。二つの骸骨の縁辺《みより》なのか、秘密を知っていて強請《ゆす》りに来たものか、その辺ハッキリ解りません。素ばしっこく逃げてしまいましてね、その後|行方《ゆくえ》が解らないのです。……どっちみち私は田舎は嫌いだ。田舎へ行くと目違いをします。……征矢野家の先代の罪悪を、あばけば発くことは出来るのですが、そんな必要はありませんでした。隼二郎氏が真面目にやっているのですから、浄罪的な立派な仕事ですよ」
妖説八人芸
一
昼の海は賑わっていた。人達が潮を浴びていた。泳ぎ自慢に沖の方へ、ズンズン泳いで行く若者もあった。渚《なぎさ》に近い浅い所で、ボチャボチャやっている老人もあった。そうかと思うと熱い砂の上へ、腹這っている中年者もあった。小舟に乗って漕ぎ出す者もあれば、小舟に乗って帰って来る者もあった。桟橋の上を彷徨《さまよ》いながら、海にいる人達を眺めている、女や子供の群もあり、脱衣場で着物を脱いでいる者もあった。
岸に近い海は濁っていたが、沖の方へ行くに従って、緑の色を深めていた。波が来た! 大きな波が! 波が崩れて飛沫《しぶき》を上げた。と、そこから笑い声が起こった。
帆船が遠くの海の上を、野茨のように白く蠢《うごめ》いていれば、浜の背後を劃している、松林が風で揺れてもいた。海は向こうまで七里あり、対岸には桑名だの四日市だのの、名高い駅路《うまやじ》が点在していた。
よく晴れた日で暑かった。
と、一人の美しい娘が、島田髷をつやつやと光らせながら、貸し別荘のある林の中から、供も連れず一人で歩いて来たが、ひょいと砂地へかがみ込んだ。彼女の前にある物といえば、脱ぎすてられた潮湯治客の衣裳や、潮湯治客の持ち物であった。
彼女は間もなく立ち上がった。そうしてソロソロと歩き出した。何んの変わったこともない。とまた彼女はかがみ込んだ。彼女の前にある物といえば、脱ぎすてられた潮湯治客の衣裳や、潮湯治客の持ち物であった。
彼女は間もなく立ち上がった。そうしてソロソロと歩き出した。何んの変わったこともない。と彼女は脱衣場へ上がり、あたりを見廻して佇んだ。
派手な模様の白地の振り袖、赤地の友禅の単帯《ひとえおび》、身長《せい》が高く肉附きがよく、それでいて形の整った体へ、垢抜けた様子にまとっている。そういう姿を衆人に見せて、彼女は佇んでいるのであった
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